祭神が神武天皇の兄で、「兄」=「安仁」とする説がある。 往古宮城山(別名鶴山)の山頂に鎭座していたと伝えられ、その後山麓の字尾の上に遷されていた。現在の社地は宝永2年(1705)岡山藩主池田綱政が社殿改築にあたつて造成したものである。 |
由緒 安仁神社略記 当社の創立年月日不詳、歴史については「続日本紀」の承和8年(841年)2月8日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えている。御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等をお祀りしている。 この社地は、宮城山(みやしろやま)・別名鶴山といい、元宮は標高80m位の頂上にあった。その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座する。明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向、大正15年皇太子殿下行啓、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(大東亜戦争まで)は荘厳で隆盛な神域でした。昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東遷の船のともづなを掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
安仁神社 安仁神社略記 鎮座地 岡山県岡山市西大寺一宮895番地 御祭神 五瀬命 神武天皇の長兄 稲氷命 神武天皇の次兄 御毛沼命 神武天皇の三兄 由緒 当社の創立年月日不詳、歴史については、「続日本後紀」の承和8年(841)、2月8日の条に「安仁神預名神焉」とあるのが初見であり、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。古くは「兄神社」、また「久方宮」(都よりはるかな地ゆえか?)と称したとも伝えている。 この社地は、宮城山(別名・鶴山)といい、元宮は標高80m位の頂上にあった。その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座する。 明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向、大正15年皇太子殿下行啓、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(太平洋戦争まで)は、荘厳で隆盛な神域でした。 昔は、この鶴山の麓まで海であり、入り江の奥で良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀の跡と見られるところに、神武東遷の舟のともつなを掛けたといわれる綱掛石神社などがある。 主なご神徳 業績にちなみ、 国土安全、 家内安全、 身体健全、 国家安泰、 商売繁盛、 無病息災、 五穀豊穣、 交通安全、 延命長寿、 海上安全、 学業成就、 当病平癒、 など 主な宝物 銅鐸(明治24年境内より出土、県立博物館へ保管) 釣灯寵(作者不詳・宝永2年9月備前国主池田綱政寄付) 高麗犬(作者不詳・宝永2年9月備前国主池田綱政寄付) 神酒徳利(伊部焼・宝永2年9月備前国主地田綱政寄付) 古鏡・石棒・石斤・弓・矢・矢じり(サヌカイト石)・刀・具足、 など 五瀬命 神武天皇東征の立案者の一人。長髄彦との戦いに従軍し傷を負い、雄図空しく陣中に没した。 雄図なかばにして戦陣にたおれる 五瀬命は、鵜葺草葺不合命と玉依毘売命との聞に生まれた四人の男子のうちの第一子である。第二子の稲氷命は母の国である海神の国へ行き、第三子の御毛沼命は外国へ渡ったと伝えられている。第四子が若御毛沼命といって、のちの人皇第一代神武天皇となった神である。 五瀬は厳稲であるといわれ、穀物すなわち食料の神と考えられている。ある日、五瀬命は、弟若御毛沼命と「天下の政を行なうのはどこがよいか」と相談した結果、大和こそ理想の地であるとの結論により東行を決めたのである。 二人はただちに大軍を率いて、海路日向の高千穂の宮を出立した。安芸国(広島県)吉備国(岡山県)を経て、ようやくのことに摂津(大阪府)に上陸した。河内(大阪府)には長髄彦という敵の大軍に迎えられ、頑強に抵抗されたため、利あらず、あまつさ五瀬命は、この戦いで矢に当たり重傷を負うという状況に陥ってしまった。「日の神の子であるわれわれが、日に向って戦ったのがよくなかった。一たん退いて迂回し、日を背にして戦おう」と、海路紀伊熊野を目指した。しかし五瀬命は、途中紀伊の雄 港で容態が悪化し、遠征なかばにして遂にこの地で死去した。 由緒書 |
安仁神社 岡山市西大寺一の宮の宮城山(別名鶴山)にあり、吉備地方屈指の古社であった。主祭神として五瀬命(神武天皇の兄)を祭り。社名の「安仁」は神武天皇の「兄」を仮名書きしたことに由来するといわれている。社殿は始め宮城山頂にあったが、1344(康永3)年火災に会い、その後1705(宝永2)年池田綱政により現在の社地に改築された。 さらに1884(明治17)年には幣殿と拝殿が、1885(明治18)年には本殿が改築された。また境内周辺の山林6haは岡山県の郷土自然保護地区に指定されている。 毎年7月11日には「茅の輪くぐり」の神事が執り行われ、参詣者で賑わう。 平成6年11月「新 西大寺八景」のひとつとして選ばれた。 社頭掲示板 |
安仁神社 この神社は、国鉄・赤穂線西大寺駅から南束へ約10Km、県道・岡山〜牛窓線の宿毛交差点からは南々東へ約2.5Kmの、岡山市西大寺一宮895番地にある。もと国幣中社。 社伝によれば、古くは久方宮と称し、現社地の東方にある宮城山(鶴山ともいう)の山頂に祭られていたが、その後、山すその字尾上に移されたという。この神社は、備前国唯一の名神大社であるが、古くから“備前二宮”と呼ばれており、一宮と称された記録はない。 現在の社地は、寛文10年(1670)に岡山藩第四代藩主・池田綱政が“令子誕生”を祈願し、それが成就した後の宝永2年(1705)に造成したもので、そのとき社殿の改築が行われた。その後、岡山藩池田家ではこの神社を祈願所と定め、毎年正月25日に同姓の家臣による代参が明治初年まで行われていた。 祭神は、現在は五瀬命(初代神武天皇の長兄)を主神として、稲氷命、御毛沼命を相殿に祭るとされているが、祭神については古くから諸説があって、定かなものがない。 社殿は、明治18年(1885)に改築されたもので、広い境内の中央部に山を背にして北向きに建てられている。本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・銅板葺き(もとは桧皮葺き昭和52年=1977に改修されたもの)で、周囲に唐門付き透塀が巡らされている。 本殿の左右には、摂社の左補神社・右補神社があり、末社には、荒神杜と稲荷神社がある。 |
安仁神社 ご鎮座由緒 当社の創立年月日は不詳である。 「続日本後紀」の承和8年(841)2月8日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。 古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えられている。 御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等である。 この社地は、宮城山(みやしろやま)、別名鶴山といい、元宮は標高80メートル位の頂上にあった。 その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座した。 明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向があった。 大正15年皇太子殿下が行啓され、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(大東亜戦争まで)は荘厳で隆盛な神域であった。 昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。 『古事記』『日本書紀』の神話や明治期に古記録を再編纂した『安仁神社誌』によると、末弟の若御毛沼命(わかみけぬのみこと、後の神武天皇)と共に、日向国(現在の宮崎県)から大和国(奈良県)へと東進する途中に神社近在へ数年間滞在される。 この時に地域住民に稲作や機織りなどの殖産事業を大いに奨励された。後年、難波津(大阪湾)での対抗勢力との戦いでの傷が致命傷となり、体制を立て直すためにたどり着いた木国(きのくに、和歌山県)でついに薨去(落命)された。 神武天皇即位後、皇兄の産業奨励を顕彰して「兄を祭る神社」、安仁神社が創建された。 五瀬命 五瀬命は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依毘売命(たまよりびめのみこと)との間に生まれた四人の男子のうちの第一子である。第二子の稲飯命は母の国である海神の国へ行き、第三子の御毛沼命は外国へ渡ったと伝えられている。第四子が若御毛沼命といって、のちの人皇第一代神武天皇となった神である。 五瀬は厳稲(いつしね)であるといわれ、穀物すなわち食料の神と考えられている。 ある日、五瀬命は、弟若御毛沼命と「天下の政(まつりごと)を行なうのはどこがよいか」と相談した結果、大和こそ理想の地であるとの結論により東行を決めたのである。 二人はただちに大軍を率いて、海路日向の高千穂の宮を出立した。安芸国(広島県)ー吉備国(岡山県)を経て、ようやくのことに摂津(大阪府)に上陸した。河内(大阪府)には長髄彦(ながすねひこ)という敵の大軍に迎えられ、頑強に抵抗されたため、利あらず、あまつさえ五瀬命は、この戦いで矢に当たり重傷を負うという状況に陥ってしまった。「日の神の子であるわれわれが、日に向かって戦ったのがよくなかった。一たん退いて迂回し、日を背にして戦おう」と、海路紀伊熊野を目指した。しかし五瀬命は、途中紀伊の雄港で容態が悪化し、遠征なかばにして遂にこの地で薨去した。 公式HP |