美和神社
みわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】美和神社 備前国 邑久郡鎮座

   【現社名】美和神社
   【住所】岡山県瀬戸内市長船町東須恵1064
       北緯34度40分31秒、東経134度8分42秒
   【祭神】大物主命 (配祀)仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 天照大神 天日方奇日方命
   【例祭】 10月8日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       永禄5年(1562)11月八幡宮と改称
       寛文年中(1661−73)池田光政拾七石二斗寄進
       明治3年美和神社と改称
       明治6六年郷社
       明治40年1月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない
        尻海の広高神社が旧地との口碑あり

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「広高八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・拝殿・随神門・神輿藏・社務所

   【境内社】天神社・天神社
   【別当】大聖寺(現在廃)

大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を勧請したと言われているが、いつ勧請したのか明らかではない。この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われていて、7世紀前後のことと思われる。
口伝では同市邑久町尻海の広高神社より遷座したと伝えられている。


由緒

美和神社は延喜式神名帳(967年)に記載されている古社で祭神は大物主神です。
当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を勧請したと言われております。しかし、いつ勧請したのか明らかではありませんが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われていますので7世紀前後のことと思われます。
鎮座している所は標高166メートルの広高山の山頂です。広高山は三和の峰とも呼ばれていました。
当社は永禄年中(1558年〜1570年)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われており明治3年もとの美和神社に復し今日にいたっています。社宝に文字瓦があり、長船町重要文化財に指定されています。この瓦にはつぎの文字が彫り込まれています。「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」 主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」です。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当です。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかります。慶安元年(1648年)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3体、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっています。当時の祭典がたいへん盛大であったことがわかります。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りする行事が大昔から現在まで続いています。
氏子は東須恵と西須恵の人々ですが、美和神社を信仰していた人々は邑久町の今城地区を除いた全域と、牛窓町小津地区に及んでいました。明治初年頃まではこれらの地区の方が交替で大祭の神幸行列に参加し神輿をかついでいました。広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説があります。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸しました。
「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死にました。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり後になまって「広高山」になったと言われています。当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸があります。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されています。しかし現在は使用しておりません。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




美和神社

美和神杜 式内社元郷社
長船町東須恵広高山に鎮座
祭神 大物主命
例祭 元旦祭 1月1日
   祈年祭 3月9日
   春季大祭 5月9日
   夏季大祭 7月15日
   秋季大祭 10月10日
   勤労感謝祭 11月23日
神紋 三ツ輪
建物 本殿 幣殿 拝殿 随身門 社務所
境内社 武甕槌神社 若宮神社 日吉神社 稲荷神社
社宝 文字瓦(長船町重要文化財)
刻字
「天正十三年閨七月拾三日
 八幡まいとのこんりう
 つ加満つり候
 すへ畑寺空賢 敬白
 西蔵坊行海」
主文の読み方
「八幡舞殿建立
 つかまつり候」
宮司 長船町東須恵245 池畑太根夫
氏子 長船町東須恵・西須恵200戸
神事
神卜 (祈年祭で作物の量凶を占う行事)
潮ごり (秋季大祭散に宮司・祷主等が海水を浴び禊を行う行事)
オシバサガリ (秋季大祭前に神霊を祷屋へ迎える行事)
オシバアゲ (秋季大祭日に神霊を祷屋から神社へ送る行事)
由緒
○当社は奈良県桜丼市三輪山に鎮座する大物主命を勧講して祠った神社です。勧請された年代は不明ですが、この地に移住してきた、須恵器の陶工集団と深い関係があるので、6世紀中ごろと推定されています。
○広高山は古くは「三和ノ峰」と称されていました。「三和」は美和・三輪・神と同じで、神霊の意です。「三和ノ峰」は神霊が宿る山即ち神体山の称号です。
「三和ノ峰」の山頂(神社よリ北へ約150m)には古代の祭祀遺跡「磐座』(神霊が宿る磐のこと)と推定される磐があリます。
○榊谷(神社の東の潔い谷)に『美和の井」と称されている井戸があります。古書に『いとよき清水なリ神供の類みなこの丼の水を調進す」と記載されています。現在は使用していません。
○慶安元年(1648)の記録によると、神職二人、祢宜神子24人が奉仕しており、更に神輿三体、やぶさめに参加する馬三疋、御神幸に参加する馬が九疋となっています。当時の祭典が、たいへん盛大であったことがわかリます。
○当社は永録年中(1558〜1570)に金川の城主松田左近が、日蓮宗を熱烈に信奉するあまリ、周辺の古社を弾圧した為、その難をさけるため「広高八幡宮」と改称したと言われています。明治3年もとの美和神社に復し現在にいたっています。
○当社の崇敬者は邑久町(旧今城村と円張地区を除く)と牛窓町小津地区および長船可飯井地区の約三千戸に及んでいました。
明治22年まで、大祭の際この地区から交替で奉仕者を出し、神幸の行列に加わっていました。
その時着用した白衣に豆田村・福元村・北池村・山田庄村・潤徳村・大ケ島村・上山田村・下山田村・横尾村・佐井田村・小津村・庄田村・尻海村・福谷村と書かれたものが保存されています。
明治22年町村制施行の機に、奉仕は廃止され、以後供進金として2500戸から250円(一戸当たり10銭)毎年奉納されていました。
この制度も太平洋戦争中廃止されました。
平成8年9月 美和神社総代会発行

社頭掲示板



美和神社

この神社は、国鉄・赤穂線長船駅から東南へ約2.5Km、岡山ブルーハイウエイの色久インターチェンジからは北々東へ約1.5Kmのところにある美和峯(標高166.4m)の、邑久郡長船町東須恵字広高山1064番地にある。もと郷社。
社伝によると、この神社は式内社の色久郡美和神杜であったが、金川城第五代城主の松田左近将監元輝が、日蓮宗を信奉して、永録年中(1558〜70)に神社を片っ端から破壊したとき、難を避けるため“広高八幡宮”と改号したという。現左の社名に再び改めたのは、明治3年(1870)になってからである。
祭神は、大物主命(饒速日尊の別称)で、社名や祭神からみて、古くは大和国(現・奈良県)の大神神社を勧請したもののようである。明治43年(1910)に、西須恵の八幡神社(祭神・応神天皇、神功皇店、仲哀天皇)と青木神社(祭神・天照大神、天日方奇日方命)を相殿に合祀したため、現在ではこれら五柱が追加されている。
社殿は、邑久町との境にある三和峯に、南面して建てられており、本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・桧皮葺きで、昭和3年(1928)に改築されたものである。
境内の末社には、稲荷神社、武甕槌神社、日古神社がある。稲荷神杜へは、明治43年(1910)に牛神社と中村神社とが合祀された。



美和神社

当社は奈良県櫻井市三輪山に鎮座する大神神社から勧請された神社である。勧請の年代は不明。
広高山は古くは三輪の峯と称され山頂に古代の祭祀遺跡と推定できる岩座がある。

社頭掲示板



美和神社

当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。
 勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166メートルの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。
 当社は永禄年中(1558〜1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。
 「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」 
 主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。
 すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。
 慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。
 10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。 
 広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。
 当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。

岡山県神社庁



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