社伝によれば、当社御祭神の日子穗々出見尊である二宮明神は、廻神泉水の四番に天降りした。 その際、尊のヨボシ(烏帽子)が脱げ落ちたので、ヌケヨボシと呼ばれた。次に足留山で一宿し、魚切の鳥帽子掛の岩のところで手を洗った。そのため、手水池という。 廻神郷布久の家でさらに一宿し、翌朝、手水の後、神敕があり、「我は向に見ゆる杉の木の元に鎮座す、此に永く久く鎮座す」と言い、現在地に鎮座したという。 明治4年、神祇省は高杉の知波夜比古神社をもつて式内社とするとの裁断を下した。 |
知波夜比古神社 ・起源 本神社御由緒調査書の該当項を要約すれば次の通りである。 二宮明神様(祭神日子穂々出見命)は廻神泉水の四番に天降り賜い、命のヨボシ(烏帽子)が 脱げ落ちたのでヌケヨボシと云う、次に足留山で一宿され、魚切の鳥帽子掛の岩のところで手を洗い賜われたので、手水池と云う廻神郷布久の家で更に一宿され、翌朝手水の後御神敕あり、『我は向に見ゆる杉の木の元に鎮座す、此に永く久く鎮座す。』 曰い、現在地に鎮座された。 ・高杉城跡について(杉山城・祝城とも云う) この高杉の一帯は馬洗川や美波羅川による肥沃な土地を背景として早くから開発され、中世に入っても三若の旗返山城に本拠をもつ江田氏の穀倉地として重要視された。本城跡の築城時期や城主については明らかではないが、觀応年間(1350年〜1352年)に知波夜比古神社の社司祝氏が見られるのでその頃構築されたものであろう、戦国時代には江田氏の支城として続いたようであるが、尼子晴久勢と毛利(大内義長)勢が対決した際、天文22年(1553年)7月22日に尼子方であったこの城は大内方の毛利元就の兵に高杉城を攻め落とされ祝甲斐守父子は滅ぼされている。そのとき城並びに神社社殿共に焼失した。城の範囲は広義には高杉の段丘全域(370m×250m)とも考えられるが、遺構が明確に見られるのは、この段丘の南側にある現在の神社境内の周辺部分である。境内を囲む南北約70m東西約50mの範囲に土塁があり、その外側東・西・北の三方に堀が廻らされていた。(西側は現在道路)南側は一段下がって平壇がある。堀は幅4〜5m深さ1m幅広の箱堀状をなし、特に土塁側は急崚に作られている。堀底は北西から南東へわずか傾斜をしており排水が考慮されていることが窺える。(境内は昭和59年広島県重要文化財史跡に指定) なお神社の東方には祝氏を供養する宝筺印塔がある。 ・知波夜比古神社本殿再建 知波夜比古神社の本殿は棟札によると弘治2年(1556年)毛利元就隆元父子が神威を畏れ三原の沖底より取り寄せた潮土を敷き、杵き固めた基礎の上に社殿を再興した。屋根を銅板葺きにし、その他若干の修理はしたものの大部分再建時のまま保存されている。 (本殿は昭和34年三次市重要文化財に指定) また、御神像は台座の銘によるとこの城が陥落した翌年にあたる天文23年6月に三吉致高隆亮父子により泉州堺から仏師をよびだし再造立させた。 公式HP |
知波夜比古神社 神杉の地には日子穂々出見命「天降り伝説」があります。この日子穂々出見命が鎮座在す知波夜比古神社は三次市高杉町の段地区にあり、俗に二宮さんと呼ばれています。 この地は城主武田甲斐守(祝氏)が守った高杉城(別名杉山城・祝城ともいう)が神社とともにあった所です。 この城は当時では珍しく平城で、今でも周囲に土塁や堀が残っています。 高杉城は尼子方で川西の旗返山城の出城でしたが、天文22年に毛利方に攻められ、当時600人もの戦死者を出し、高杉城は陥落。この時神社も焼失しました。 毛利元就・隆元は神社を焼いたたたりを畏れ、清めに三原の沖より潮土を運ばせ土台に使用し神社を再建したと言われています。境内には厳島神社・伊勢神社・風王社や大仙社・金比羅社・祝社・荒神社があり、境内地は広島県史跡に,本殿は市の重要文化財に指定されています。 三次市観光公式サイト |