世羅八幡神社は貞観2年(860)世良彦社に八幡大神を併わせ祀り世良彦八幡宮と唱えた。
世良彦命は孝霊天皇の皇子五十狭芹彦命並びに若建彦命が吉備の地を征定し給いしとき、その部下として世良郡の郷土執政役郡司として地方開拓の任に当たり、部落生民の基礎を開いた一偉人英雄の士であるという。 三代実録(藤原時平勅撰)には世羅郡を世良郡と記せり、また地方を郡元(こうりもと)と言い伝えるも、この地方を世良彦命が開拓創業せられしことが原因するのである。 貞観元年(859)豊前国宇佐八幡宮から山城国男山へ、八幡神を勧請するに際し、世良巫某が、出迎えたと伝。その縁故で八幡神を勧請した。 中世、寺町へ八幡神を分祀したため、当社・世良八幡宮を本宮と呼び、寺町八幡宮を別宮と呼ぶ。その寺町八幡宮が、式内社・和理比賣神社の旧地である。 |
世良八幡神社 世良八幡神社の由緒 世良八幡神社は貞観2年(約1130年前)世良彦社に八幡大神を併せ祀り世良彦八幡宮とも唱えている。 世良彦命は、孝靈天皇の皇子五十狭芹彦命並びに若建彦命が吉備の地を征定し給いし時、その部下として世良郡の郷土執政役郡司として地方開拓の任に当り、部落生民の基礎を開いた一偉人英雄の士であるという、三代実録(藤原時平勅選)には、世羅郡を世良郡と記せり、また地方を郡元(こうりもと)と云い伝いふるも、この地方を世良彦命が開拓創業せられしことが原因するのである。 即ち小世良(おせら)御世良の敬語が転じたものである。 当神社の宝物中の「宮内額」に当郡宗社と裏に大治末年作(843年前)とありて、世羅郡の郡司も代々当神社を当郡の宗社として崇敬厚く郡民も又、これに習い尊敬浅からざりし故に額面にこの文字があるのである。 その後は、武門の崇敬最も厚く、一例を申せば、明応9年(約471年前)下見加賀の守、宮殿改築する。 また沼井築後守右衛門大夫毛利元祐、松平従四位綱長公の諸氏、社殿の造営修復を行ったと棟札の記録による。 斯の如く古くより地方開拓の恩人世良彦命は地方の先祖であり氏神である。 毎月1日と15日には、交通安全の起願を致します。 社頭掲示板 |