賀羅加波神社
からかわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】賀羅加波神社 備後国 御調郡鎮座

   【現社名】賀羅加波神社
   【住所】広島県三原市中之町5-10
       北緯34度25分2秒、東経133度6分9秒
   【祭神】太玉命・瀬織津比当ス・天鈿女命
   【例祭】
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       明治6年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

当社創立の由緒は二説ある。一説は当社社名の賀羅加波付近を流れる干川(現在は湧原川・和久原川と称す)に由来するとの説であり、一説は賀羅加波の賀羅は朝鮮半島に由來し帰化系の神社とする説である。
特殊神事として、飛射神事というものがある。正月に梅の木で弓を作り、鬼門艮神へ矢を放ち、次いで鬼の字を書いた的を射る神事。現在は1月末と2月初めに行われる開運厄除祈祷の一環として行われている。
当社は、山城国八坂祇園社の本宮と伝わる。


賀羅加波神社

総鎮守 御調宮、賀羅加波神社由緒
御祭神 太玉命・天鈿女命・瀬織津比賣命
天石窟で太玉命が祈祷なされ、天鈿女命が神楽を舞われた。
遠祖の神々に当り(古事記・日本書紀)大和民俗の祖神として、政治・産業・文化の神とされた。
瀬織津比賣命は河神(藝藩通志)として、治山治水の大霊神として地方大衆を守護し給う神であるところから、古代より尊称された。
朝廷は幣帛を国司に下し、国司より其の幣帛を当社に供進されていた。
延喜式名神小社に列せられ、御調一の宮に定められた。
明治以降は郷社に列せられ御調(尾道・三原・因島)では唯一の郷社として尊崇された。
現在官制は廃止されたが、敬神と信仰の心に、かわるところはない。

社頭掲示板



賀羅加波神社

御祭神…賀羅加波神社正殿・相殿
天照大御神〈農耕 衣食住 勝運 開運 諸願〉
素盞鳴尊〈農耕 治山 縁結 厄除 学問 諾願〉
豊受比賣命〈食物 稲 穀物〉
天太玉命〈請願 方除け 交通安全 開拓〉
天宇受賣命〈芸能 勝運 子宝安産 交通安全〉
瀬織津比費命〈穢祓 厄除 交通安全 河川〉
摂社
宿里神社 山城國八坂祇園社の本宮と伝わる。
須佐之男命 茅の輪伝承由来の神々を祀る。
蘇民将来命 〈疫病滅除 家内安全 開運 厄除〉
太久良神社 干川 定兼 光谷 常長 後山 蔵之内 重田 十一面 重政
八百万大神 大谷他各地より七十会社を合犯される。〈諸願成一就〉
御創建
不明、ただし延喜式神明帳に奉記さるる事から延喜(900〜)年間には既に國の重要な祭祀を執り行う主要な神社であった事は明白である。
御由緒
社名の由来については諸説あるが、賀羅加波の文字は万葉仮名であり漢字の意味はなく、和久原川が当社付近で伏流するため干川と称され、地名、社名に通じた説が有力である。
当社は延喜式神明帳に御調郡一座賀羅加波神社とある国幣小社であり御調郡一の宮、疫病鎮護の勅願所として尊崇を集めた。御神体は延喜5年師走26日、宣下安鎮し奉られた勅願の御霊代(木像)である。以後毎年、神祇官より国司を通じて案下の幣帛を供進されていた。小早川隆景公の崇敬篤く、神田四五町歩の寄進も受けていたが、福島正則によって、影が海まで届いていたと伝わる程の大樟の神木と共に没収された。その樟の根の一部は拝殿内の絵馬に掲げられ、縁起を伝えている。明治6年2月に郷社の社格を承け益々民衆の崇敬を高めた。
亦、摂社宿里神社は山城国祇園八坂神社の本宮であると伝えられ、茅の輪神事の発祥であるとも考えられている。 特殊神事(飛射神事) 一時中断していたが、現在は節分祭に併せて執り行われる。藝藩通志によると、梅の木を以て弓を作り、鬼門艮神に向かい矢を放ち、次に鬼の字をしるした的を射た。それに続いて参拝者が一矢ずつ射放つこととなっていた。現在、梅の木を用いた弓は復元を摸索しているところである。
御神木
拝殿東側に壱千年以上の齢を経ただろう欅、西側には椋、正面には大公孫樹と云う具舎に三本もの巨木が境内地内に根を下ろしていることで、御祭神に対する畏敬の念をより高めている。

由緒書



賀羅加波神社

延喜式神名中に加羅加波神社とあるも是なり。太玉命・瀬織津比当ス・天鈿女命を祀る。神徳■き家内安全子孫繁榮、交通安全の霊験灼かなり。 昔時は飛射神事なるものありて正月八日神主梅木にて弓を製し、先づ鬼門艮神へ放ち、的に鬼の字を書き、一矢射て後、氏子共一矢ずつ射るという。一時中興せしが、永続せず、飛射面の地名現存せり。ここ数年來、八日子供會による「竹根乾」藝能を奉納し神徳を称う。
拝殿の西に大欅の根埋れ榴を爲せり。神主祈念し有志これを発掘せしが飛龍宝亀雄鷲麗羊臣虎風流の妙多続出し藝術性豊かに老欅の偉容を再建し世に役立てり。これ神徳なり。巨幹之測して周囲六米余、年輪千余を数えり。御調郡誌に「位置といい、環境といい昔時の式内社は他の地方にありしやと思わるれども今は考証するに由なし。」と有り。然れども大古より一貫して此の加羅加波の里に式内社存せしは大欅の温存せし。邑人の厚き信仰を以て証左とするに足りる。
茲に昇炎の老欅根を奉納して事實を後世の識者に傳え、併せて郷土の隆昌、家内安全子孫繁榮を祈願する者なり。
昭和50年1月1日願主

社頭掲示板



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