当社の神体山は三室山と称し岩窟信仰が行なわれている。山頂付近の天壷神社の下に磐座と呼ばれる巨岩がある。 元明天皇和銅元年(708)、備後国に悪疫が大流行した時、国司の佐伯宿禰麻呂が常日頃より信仰してゐた出雲の美保の大神(事代主神)を分霊し、三室山に奉齋したところ、悪疫はたち所に退散し、民衆に崇敬されるようになつたと伝。 昭和21年(1946年)の国幣社昇格が内定していたが、社格制度が消滅。 |
由緒 和銅元年(708)、備後国に悪疫流行の際、時の国司佐伯宿祢麻呂は平素崇敬の出雲国美保の大神を三室山に勧請し、御祈祷申し上げた処、悪疫退散し、それを喜び大己貴神(大国主神)と少彦名神を合せ祀りて感謝報恩の誠を捧げ尽した。以来、霊験顕著にして、天平宝字4年(760)の悪疫流行の際には国司甘南備真人伊香が大神に祈請し霊験あり、従五位上に叙せられたという。貞観9年(867)4月、正五位下に進み、元慶2年(878)11月、正五位上に進まれた。また『延喜式』神名帳に列した式内社であり、明治5年に郷社、昭和3年に県社に列した。本殿は創建以来度々改築され、現在のものは宝永3年(1706)の造営になる。大正13年に拝殿再建、その後社殿の整備が進み、昭和33年には御鎮座1250年大祭記念事業として宝物館、三室会館を新築した。なお、永禄元年(1558)の旱魃の時にも霊験があり、毛利元就は田一町余を寄進したが、福島正則により没収されたという。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
甘南備神社 甘南備神社御由緒略記 広島県府中市出口町三室山鎮座 一、御祭神 事代主神 大国主神 少彦名神 相殿 龍王神 一、御鎮座の由来(神さぶる千木仰ぐにもおもふかなみむろの山の高きみいつを 加茂百樹) 遠く元明天皇和銅元年、備後の国に悪疫大に流行せし折、時の国守佐伯宿禰麿は、平素常に崇敬仕る出雲の国の美保の大神(事代主神)の御分霊を三室山に奉斎し、只管御祈祷申上げたところ、さしもの悪疫も日ならずして退散致したので、備後地方の民人は挙げて其の御霊験の誠に顕著なるに歓喜し、其の感謝報恩の誠心を結集して、いとも壮厳なる御神殿を造営し、父神大国主神と少彦名神を合せ祀りて、祭典を盛大に厳修し奉りてより御神徳益々高く御神威日日に新たにして、御社運益々興隆し給ひ、氏子崇敬者は日夜広大無辺なる御神恩に浴して居るのである。 又相殿の龍王神は、元正天皇養老7年、旱魃の為、天下の草木、稲苗共に枯死せんとしたので、万民は悲歎に暮れていたところ、藤尾村の龍王神は、国府の一賎女に「吾前を三室山の甘南備神社に合せ祀らば旱災を除くべし」 と日ひ、その御神託により遷し祀りし由緒ある神である。 一、御祭神の御神徳(天地とともにひさしく天皇の御尾前つかへ国まもる神 橘曙覧) 事代主神は大国主神の御子神にましまし、父神と心力を合せて国土経営に当り給ひ、天照大神に国土を奉献せられてひたすら御神忠をお尽しなされ、永く皇室の守護神となり給ひ俗に「えびすさま」と申上げ、福徳円満、平和愛好、商売繁昌の御神徳広大なるものがある。 大国主神は、事代主神の父神にましまし、慈愛謙譲の御神徳高く国土開拓、農業経営、産業振興、経国愛民の大業を成就し給ひ、俗に「だいこくさま」と申上げて縁結びの神として、万民の幸福を護り給ひ、国家の守護神である。 少彦名神は大国主神と兄弟の如く仲よく、国土経営にあたられ、医薬禁厭の法を定め給いて民人の疾苦を安んじ給ひて、医薬の神、温泉の神、酒造の神として御神徳が高い。 又龍王神は、雨の神として、旱魃ある毎に古来効験顕著なるものがある。 一、御社柄(初しぐれ昨日かふりし甘南備の森の木の葉のうすもみぢせり 難波政世) 御神階は淳仁天皇天平宝字4年従五位上に敍せられ、清和天皇貞観9年4月正五位下に進められ、陽成天皇天慶2年11月正五位上に進められた、御社格は、延喜の御代式内小社に列せられ、明治5年11月芦田郡郷社に、昭和3年10月19日県社に列せられた。 一、崇敬(かむなびの神のみめぐみいただきて清く明るく生くる楽しさ 小田瑞穂) 本社は当地方に於ける最も由緒ある古社にして、古くより歴朝の御崇敬特に篤く就中淳仁天皇、清和天皇、陽成天皇は事ある毎に奉幣し給ひ、又毛利元就公、水野勝成公をはじめ松平、阿部の諸公等は夫々祈願所として深く崇敬された。 近年に至っては、御祭神が出雲の縁結びの福の神にましますので、その御神徳を敬慕して、神前結婚を挙げる人が増加し、農工商何れを問はず所謂「甘南備大明神」さまと称え奉り、崇敬し奉り、その恩頼を承り蒙らむとする人が益々増加して居ることは、まことに尊く有難いことである。 一、御社領(鉾杉の木の間をもるる冬の日も神さびにけり賀武奈備の杜 得能正通) 永禄元年毛利元就公は祈雨報賽の為田一町歩を永代寄附せられたが後、福島正則に没収せられ、寛永15年水野勝成公は同じく祈雨報賽の為赤岩田地一ケ所を御供料として寄附、又寛文3年境外山林二町余を宮山として寄進せられ、後境内地に編入せられた。 又最も特筆大書すべき寄進は実に大正14年12月、出口、府中両町合併に際し、出口町有の山林七十六町五反二十一歩を御昇格基本財産として出口町より無償寄附せられた。 一、祭典行事(人とかく生れけるこそうれしけれ神のめぐみに報ひざらめや 千家尊福) 一、御社殿(春は花秋は紅葉の折毎に尊とさきるかむなびの森中島博光) 御本殿は和銅元年創建の後、幾度か造営され、桧皮葺、朱塗の御本殿は宝永3年8月、福山城主松平下総守の造営せられたもので、幣殿は大正13年2月銅板葺を以て新築され、次いで手水舎、社務所、神霞所、随神門、神楽殿等が建築され、又境内社稲荷神社が造営され更に御鎮座1250年祭記念事業として、宝物館の新築並に神前結婚披露宴、其の他の会場用に三室会館が新築され、昭和53年御鎮座千1270年祭記念事業として、御本殿並稲荷神社拝殿を銅板屋根に葺替へられ、境内建物は益々整備された。 一、三室山公園(名も高き三室の山のもみぢ葉をたりみてぐらと神もめづらむ 追林順太郎) 本社の後方三室山には、古来祭祀遺跡の磐座が沢山あり、滝壼あり、清流あり、眺望絶佳で、観光資源に富めるを以て、昭和25年5月氏子総代発起して三室山公園協賛会を設立し、神社より数百万円の補助を得て、桜三千本、紅葉三百本、つつじ三百本の植樹、自動車道路の建設、休憩所の設置、架橋等幾多の設備を充実して昭和32年春、桜花欄漫の候公園開きを行ひ、府中市の観光地に指定され、更に国庫補助を得て昭和40年には都市公園に指定され、爾来四季を通じて甘南備神社信仰と共に、益々観光客が増加している。 由緒書 |
甘南備神社 御鎮座の由来 (神さぶる 千木仰ぐにも おもふかな みむろの山の高きみいつを加茂百樹) 遠く元明天皇和銅元年(708年)備後の国に悪疫大いに流行せし折り、時の国主佐伯宿禰麿は平素常に崇敬する出雲の国の美保の大神(事代主神)の御分霊を三室山に奉斎し、ひたすら御祈祷申し上げたところ、さしもの悪疫も日ならずして退散致したので、備後地方の民人は挙げて其の御霊験の誠に顕著なるに歓喜し、其の感謝報恩の誠心を結集して、いとも荘厳なる御神殿を造営し、父神大国主神と少彦名神をも合わせ祀りて、祭典を盛大に厳修し奉りてより御神徳益々高く御神威日々新たにして、御社運益々興隆し給ひ、氏子崇敬者は日夜広大無辺なる御神恩に浴し、子孫相伝へて、感謝報恩の誠を捧げ尽している。 又、相殿龍王神は、元正天皇養老七年(723年)旱魃の為、天下の草木稲苗共に枯死せんとしたので、万民は悲嘆に暮れていたところ、藤尾村の龍王神は、国府の一賤女に「吾前を三室山の甘南備神社に合わせ祀らば旱災を除くべし」と日ひ、その御神託により遷し祀りし由緒ある神である。 公式HP |