多理比理神社
たりひりじんじゃ
吉備津神社 境内社
所在地 社名















   【延喜式神名帳】多理比理神社 備後国 品治郡鎮座

   【現社名】多理比理神社(吉備津神社境内社)
   【住所】広島県福山市新市町大字宮内440
       北緯34度34分9秒、東経133度16分15秒
   【祭神】息長帯姫神
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは品治郡服部村大字服部本郷神子原に鎮座
        何時の頃か荒廃し、吉備津神社の境内に移された

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】参考 吉備津神社
   【社殿】本殿
       

   【境内社】
   【境内図】 境内図

もとは品治郡服部村大字服部本郷神子原(ミュバラ)(現福山市駅家町服部)に鎭座していたが、何時の頃か社が荒廃し、吉備津神社の境内に移されたとする。
また一説に多理比理神社は、一ノ宮(吉備津神社)であるとする考えがある。つまり品治郡宮内村(現芦品郡新市町宮内)に当初より鎭座していたとする。
実際に多理比理神社は式内社として、延喜式神名帳に記載があるが、備後吉備津神社は延喜式神名帳に記載がない。


吉備津神社

御創建は平城天皇の御代、大同元(806)年3月、備中中山吉備津神社より分祀されたと伝えられ、「備後国吉備津宮八講之縁起(びんごこくきびつみやはっこうのえんぎ)」には、長和3(1014)年法華八講(ほっけはっこう)が始められたとされています。京都祇園社(八坂神社)の「社家條々記録(しゃけじょうじょうきろく)」には、久安4(1148)年、法華八講会(ほっけはっこうえ)の御八講料所として当社が宛てられたことが記されています。
鎌倉時代に入り、「百錬抄(ひゃくれんしょう)」には、寛喜元(1229)年11月27日、備後国吉備津宮焼失とあり、その後,再建ののち、時宗を開いた一遍上人が弘安10(1287)年、当社を参詣し、その様子は国宝「一遍上人絵伝(一遍聖絵)」(清浄光寺蔵)に描かれています。永仁5(1298)年、京都六波羅より神領壱万六千貫を受け、当時の繁栄ぶりがうかがわれます。
南北朝の争乱期、「太平記」に、元弘元(1331)年9月、桜山茲俊(さくらやまこれとし)公は楠木正成公と東西相呼応し、ここ一宮で倒幕の兵を挙げられましたが、楠木公の赤坂城落城の誤報を受け、もはやこれまでと、元弘2年正月21日、妻子一族郎党と共に自刃され、兵火は一宮まで及んだと伝えられております。
 「吉備津宮勘合略記(きびつみやかんごうりゃっき)」には、永和2(1376)年、小野宮左近将監により本殿が再建され、この時、三宮を正宮一宮とし,南北の二宮は正宮に合祀したと記されています。
江戸初期の、慶安元(1648)年、初代福山藩主水野勝成公により現在の御本殿が造営され、その造りは、入母屋造平入(いりもやずくりひらいり)・檜皮葺(ひわだぶき)で、桁行(けたゆき)(横)7間 (18.5m)、梁間(はりま)(縦)4間(9.7m)あり、全国でもまれにみる大規模な社殿です。
また、向拝三間で,正面には千鳥破風(ちどりはふ)・軒唐破風(のきからはふ)を持った江戸時代初期の建築でありながら、室町時代の風格と桃山彫刻を兼ね備えています。御本殿は昭和40年3月、国の重要文化財に指定されました。
明治2年小田県品治郡・神石郡の郷社に定められ、同9年県社、昭和3年国幣小社となりました。古来より現在に至るまで、備後国14郡の一宮と称せられ、多くの人々が参詣し、大神の御神徳を仰がれています。

公式HP



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