現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。 沼名前神社の本殿に向かって右手に末社が大小6社並んでいる、右から2番目のやや大きい社が渡守神社である。 明治元年素箋鳴神社と改称、同4年沼名前神社國幣小社に列せられし際は、祇園社を以て沼名前神社と認め、社號を沼名前神社と改めしが、同7年11月、宮司吉岡徳明の上申を採用せられ、同8年5月15日、旧に復して渡守神社を沼名前神社と認め、9年7月、渡守神の神霊を本殿に奉齋し、祇園神を相殿に奉齋す。 渡守大明神の社殿は、はじめ靹の西町にあつたが、慶長4年8月2日火災に罹り、社殿及び宝物等を焼失した。のち後地村麻谷へ遷座し、貞享2年(1674)藩主水野氏が再建したとき、更に草谷へ遷座した。そして明治4年5月、國幣小社に列せられ、同9年7月、同所の祇園社本殿に移り、祇園社の神を相殿に移し奉つた。 (式内社調査報告) |
由緒 神功皇后西国へ御下向の際、船をこの浦に寄せられた時、海中より尺余の霊石を得たので神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀られ、海路の安全と戦勝を祈られたのが当社の創祀と伝える。もと渡守(わたす)の辻に鎮座したが、慶長4年(1599)火災により焼失し、福島正則が後地麻の谷に祇園社と並べて再建、承応2年(1653)福山城主水野勝俊夫人が本殿を修造、さらに貞享2年(1685)草の谷に社地を遷して社殿を新築した。当時は渡守大明神と称したが、明治9年、祇園社本殿へ大綿津見命を遷座し、祇園社の須佐之男命を相殿神とし、祇園社の社号を廃して沼名前神社と以降は専称する。当社は延喜式内社であり、明治4年、国幣小社に列格した。また、祇園社は須佐之男命を祭神とし、もと関町に鎮座したが、天長年中(524−34)後地麻の谷へ遷座したと伝える。保元2年(1157)阿闍梨弁祐の勧請とする所伝もある。延慶3年(1310)沙弥道昭(照)が本願となり再興、永享10年(1438)讃岐国白山の沙門心疑が霊夢を得て再興、福島正則の臣の奉行岡本伝之丞が舞殿を建立、寛永2年(1625)福山城主水野勝重が鳥居を建立する。天和2年(1682)、五間社入母屋造、向拝付の壮麗な本殿を従来の地より南の草の谷に造営、享保11年(1726)本殿を一段高く引き移す。備後三祇園の一として古くから著名であったが、明治9年、境内社渡守社の祭神を本社内へ遷し、祇園社の号は廃された。昭和50年、火災により社殿を焼失し、同55年に現社殿を再建した。なお、境内にある能舞台は、京都伏見城内にあったものを福山城主水野勝成が拝領し、万治年中(1658−61)に当社に寄進したものであって、重要文化財に指定されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
沼名前神社 沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りしています。 今から千八百数十年前、第14代仲哀天皇の2年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。 須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆町内の関町に鎮座していたが、慶長4年の火災で焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治9年綿津見神を合祀し、相殿として奉斎されています。 残念ながら、この祇園宮の創建については不詳です。 旧社格は国幣小社。また延喜式内社です。現在は神社本庁所属の別表神社です。 海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等のご神徳があります。 公式HP |
沼名前神社 御祭神 大綿津見命・須佐之男命 御由緒 今から千八百数十年ほど前、第14代仲哀天皇の2年に、神功皇后が西国に御下向の際、この浦に御寄泊になり、大綿津見命を祀られ、海路の安全を祈られたことに始まる。(渡守神社、元の沼名前神社)鞆祇園宮(須佐之男命)の鎮座起源年代は不詳。 明治9年に鞆祇園宮に大綿津見命を合祀し、須佐之男命を相殿として現在の沼名前神社となる。 旧社格は国幣小社 延喜式内社 例祭5月2日 特殊神事お弓神事2月第二日曜(鞆八幡宮の祭礼)お手火神事7月第二日曜の前夜 社頭掲示板 |