沼名前神社
ぬなくまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】沼名前神社 備後国 沼隈郡鎮座

   【現社名】沼名前神社
   【住所】広島県福山市鞆町後地
       北緯34度23分11秒、東経133度22分42秒
   【祭神】大綿津見命 須佐之男命
   【例祭】5月2日 例祭
   【社格】旧国幣小社
   【由緒】仲哀天皇2年神功皇后が勅祭
       慶長4年(1599)8月2日火災
       貞享2年(1674)藩主水野氏再建
       明治4年5月国幣小社
       明治9年7月渡守神の神霊を本殿に奉齋

   【関係氏族】
   【鎮座地】はじめ靹の西町にあつた
        のち後地村麻谷へ遷座
        貞享2年(1674)草谷へ遷座
        明治9年7月祇園社本殿に奉齋

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「渡守大明神」と称していた
   【公式HP】 沼名前神社
   【社殿】本殿権現造
       幣殿・拝殿・神饌所・随神門・手水舎

   【境内社】渡守神社・八幡宮・護王神社・小烏神社・淀媛神社
   【境内図】 境内図

現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。
沼名前神社の本殿に向かって右手に末社が大小6社並んでいる、右から2番目のやや大きい社が渡守神社である。
明治元年素箋鳴神社と改称、同4年沼名前神社國幣小社に列せられし際は、祇園社を以て沼名前神社と認め、社號を沼名前神社と改めしが、同7年11月、宮司吉岡徳明の上申を採用せられ、同8年5月15日、旧に復して渡守神社を沼名前神社と認め、9年7月、渡守神の神霊を本殿に奉齋し、祇園神を相殿に奉齋す。
渡守大明神の社殿は、はじめ靹の西町にあつたが、慶長4年8月2日火災に罹り、社殿及び宝物等を焼失した。のち後地村麻谷へ遷座し、貞享2年(1674)藩主水野氏が再建したとき、更に草谷へ遷座した。そして明治4年5月、國幣小社に列せられ、同9年7月、同所の祇園社本殿に移り、祇園社の神を相殿に移し奉つた。
(式内社調査報告)


由緒

神功皇后西国へ御下向の際、船をこの浦に寄せられた時、海中より尺余の霊石を得たので神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀られ、海路の安全と戦勝を祈られたのが当社の創祀と伝える。もと渡守(わたす)の辻に鎮座したが、慶長4年(1599)火災により焼失し、福島正則が後地麻の谷に祇園社と並べて再建、承応2年(1653)福山城主水野勝俊夫人が本殿を修造、さらに貞享2年(1685)草の谷に社地を遷して社殿を新築した。当時は渡守大明神と称したが、明治9年、祇園社本殿へ大綿津見命を遷座し、祇園社の須佐之男命を相殿神とし、祇園社の社号を廃して沼名前神社と以降は専称する。当社は延喜式内社であり、明治4年、国幣小社に列格した。また、祇園社は須佐之男命を祭神とし、もと関町に鎮座したが、天長年中(524−34)後地麻の谷へ遷座したと伝える。保元2年(1157)阿闍梨弁祐の勧請とする所伝もある。延慶3年(1310)沙弥道昭(照)が本願となり再興、永享10年(1438)讃岐国白山の沙門心疑が霊夢を得て再興、福島正則の臣の奉行岡本伝之丞が舞殿を建立、寛永2年(1625)福山城主水野勝重が鳥居を建立する。天和2年(1682)、五間社入母屋造、向拝付の壮麗な本殿を従来の地より南の草の谷に造営、享保11年(1726)本殿を一段高く引き移す。備後三祇園の一として古くから著名であったが、明治9年、境内社渡守社の祭神を本社内へ遷し、祇園社の号は廃された。昭和50年、火災により社殿を焼失し、同55年に現社殿を再建した。なお、境内にある能舞台は、京都伏見城内にあったものを福山城主水野勝成が拝領し、万治年中(1658−61)に当社に寄進したものであって、重要文化財に指定されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




沼名前神社

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りしています。
今から千八百数十年前、第14代仲哀天皇の2年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。
須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆町内の関町に鎮座していたが、慶長4年の火災で焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治9年綿津見神を合祀し、相殿として奉斎されています。
残念ながら、この祇園宮の創建については不詳です。
旧社格は国幣小社。また延喜式内社です。現在は神社本庁所属の別表神社です。
海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等のご神徳があります。

公式HP



沼名前神社

御祭神 大綿津見命・須佐之男命
御由緒 今から千八百数十年ほど前、第14代仲哀天皇の2年に、神功皇后が西国に御下向の際、この浦に御寄泊になり、大綿津見命を祀られ、海路の安全を祈られたことに始まる。(渡守神社、元の沼名前神社)鞆祇園宮(須佐之男命)の鎮座起源年代は不詳。
明治9年に鞆祇園宮に大綿津見命を合祀し、須佐之男命を相殿として現在の沼名前神社となる。
旧社格は国幣小社 延喜式内社
例祭5月2日
特殊神事お弓神事2月第二日曜(鞆八幡宮の祭礼)お手火神事7月第二日曜の前夜

社頭掲示板



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