元は久代のニヒツ山(権現山)に鎮座していた。この山は古代の丹生山すなわち朱砂を産出する山であり、最初は爾比都売神の単独祭祀であつたが、後代、修験に護持されて丹生高野の両所明神と祭神が変化し、この地の朱砂の産出が絶えると、創祀以來の爾比都売が忘却されて、高野明神だけが高野権現の形でこゝに留まつていた、その高野明神もやがては修験の衰頽と運命を共にした。 文化年間(1804年-1817年)、権現山の西約30キロ、もとは厳島神社があったともされる現在地に再興された。 |
爾比都売神社 創立年代不詳。延喜式内社。『芸藩通志』に「今西城町にて此を祭る。延喜式内神名、備後國奴可郡1座、爾比都賣神社とあり。されば此社は当郡の名神なるに、世変によりて久しく廃し、其社地さへも知れずなりぬ。久代村高野権現山をにひつ山とも称するよしなれば、昔、此山に鎮座ありしやとおもはるれど、外に跡もあらず(中略)されば、郡内の祠官等も式内の社久しく廃せしを嘆き、初西城町厳島神社において仮に此神を勧請せしが、又別に社を建て郡の総社とあがめ、此を祭らん事を祠官等同じく議して藩府に請ひ、遂に新に地を卜して社を造営することとはなりぬ。』と、その廃絶、再興の事情を記している。安政5年(1858年)社殿再建。現在の社地は、往古の社地とされる高野権現山の西30キロに当り、奴可郡の中央に位置し、江戸期には砂鉄採取を多くの住民が生業となしており、西城はタタラ製鉄の中心地として栄えていたことにより、当地の守護神としてこの神社を再興したものと思われる。明治6年、郷社に列格、昭和11年に本殿再建、拝殿葺替。 社頭掲示板 |