素盞鳴神社
すさのおじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須佐能袁能神社 備後国 深津郡鎮座

   【現社名】素盞嗚神社
   【住所】広島県福山市新市町戸手1-1
       北緯34度33分10秒、東経133度16分46秒
   【祭神】素盞嗚尊 稻田姫命 八王子命
   【例祭】7月14日 祇園例祭
   【社格】旧県社 備後国一宮
   【由緒】和銅6年(713)備後風土記に疫隈国社とあり
       天文10年(1541)深津郡江熊牛頭天王社再興
       明治元年10月素盞鳴神社と改称ん        大正2年11月郷社
       昭和5年9月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】入母屋造檜皮葺
       幣殿・神餞所・拝殿・神門・神輿・手水舎・社務所

   【境内社】蘇民神社・疱瘡神社・天満宮

備後國風土記逸文に記載されている蘇民將来伝説の疫隅国社がのちの式内社深津郡須佐能袁能神社であるとする。
社伝によれば、天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる。その後、遣唐使の吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に播磨の廣峯神社に勧請したとされる。
廣峯神社は、現在では日本の祇園信仰の総本社と考えられる八坂神社の元宮の可能性があり、当社はさらにそのその元宮を主張していることになる。
蘇民将来や茅の輪くぐり発祥地ともしており、祇園信仰の根源、ということになる。


素盞嗚神社

奈良時代のはじめに編纂された備後風土記に当社の名称、疫隈国社がでています。
仏教が伝来し、本地垂迹説(注1) 影響を受けて神社名が祇園社、天王社、江熊祇園牛頭天王社と呼ばれていました。明治時代に出された神仏分離令により、神社名に仏語を用いることが禁じられたため、現在の神社名である素盞嗚神社に改名されました。

公式HP



素盞嗚神社

 『北海に坐します武塔神……南海に出でまししに日暮れぬ。その所に将来二人ありき、兄の蘇民将来、甚く貧しく弟の巨旦将来、富みて屋倉一百ありき……(備後風土記逸文)より』
 この附近一帯を疫の隈という。
 蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫の隈国社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。
 武塔天神は祇園牛頭天王とも称されるほか 建速須佐之男(古事記)(日本書紀では素盞嗚尊)と記された出雲神話の祖である。
 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した。
 本社は備後三祇園の一社で七月の祇園祭りは備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社よりの「無言神事」が今も行われている。
 建造物のうち道路側の楼門は相方城(天正年間・1580年ごろ)の城門を移築しており当時の建築様式を知るに貴重である。
 『茅の輪くぐり』(旧暦6月30日、直径約2mの茅の輪をつくり無病息災・厄除けを願って茅の輪をくぐる行事をいう)
<本殿>…入母屋造・千鳥破風・桧皮葺
<拝殿>…入母屋造・向拝付唐破風
<西城門>…二重楼門
<鳥居>…明神鳥居
(境内に県天然記念物指定の大スギがあったが先年枯死する)
新市町教育委員会

社頭掲示板



素盞嗚神社

疫隈の郷(江ノ隈の里)(奈良時代)
この付近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。
江は入り江であり、隈はかたすみとも読める、江ノ隈の読みから、穴の海の入り江であった事が伺われる。
古山陽道(奈良時代はこのあたりを通ったので海陸交通の要の地ともなり、人の往来につれて市(江熊市)の栄えたところでもある。
江ノ熊から西にたどれば国府・上川辺を経て安芸の国に至り、北に川をたどれば、木野山を経て備後奥地に連なる。
交通路の分岐点であり、海陸の際であり、市の繁栄と、くらしの平穏を願った「蘇民将来、茅の輪くぐり」の伝説の地でもある。
新市町教育委員会

社頭掲示板



素盞嗚神社

通称「天王さん」と呼ばれ、素盞嗚命(すさのおのみこと)を祭神として祀り、平安時代中期から祇園祭(ぎおんまつり)が始まったと言われています。主な例祭としては7月に行われる「みこし合せ」で有名な祇園祭と風土記逸文に由来する「茅の輪(ちのわ)くぐり」があります。
奈良時代のはじめに編纂された備後風土記に当社の名称、疫隈国社(注1)がでています。
仏教が伝来し、本地垂迹説(注2) 影響を受けて神社名が祇園社、天王社、江熊祇園牛頭天王社と呼ばれていました。明治時代に出された神仏分離令により、神社名に仏語を用いることが禁じられたため、現在の神社名である素盞嗚神社に改名されました。
(注1)この地は当時、江熊・疫隈と呼ばれていました。
(注2)仏が本地であり、神は仏が迹(あと)をたれて、人々を救うために 現れた仮の姿であるとする考え

新市町観光協会



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