この地域は、景行天皇の頃海水の湾入する湖沼地帯即ち漁村であり、漁民が漁獲の多からんことを新つて、海神である豊玉姫命(海神(ワタヅミ)豊玉彦の女、豊姫とも略称)を祀つたことによつて当社の原型が成立したと考えられる。 伝承によると、網付谷の荒磯岩上に磯神社として鎮座し、のち網付谷の奥の小中山に遷り、建武年中(1334−35)備後守護朝山次郎左衛門尉景連が黄葉山上に築城した時、城郭の守護神として当山の中腹に遷したと云われている。 明治元年(1868年)福山藩の調査で式内社とされ、同2年(1869年)公称を「天別豊姫神社」に定められた。 |
天別豊姫神社 由来 当神社はこの地方が穴の海と呼ばれていた頃、黄葉山東麓の荒磯岩上に祀られ「磯神社」と称されていた。 元慶2年(878年)には神階従五位上に叙せられ、延長5年(927年)には延喜式神名帳に安那郡天別豊姫神社と所載され中央にその資格を認められた。(式内社) その後、建武2年(1335年)浅山氏が備後国守護職となり城を黄葉山に築くに当たり、本社をその中腹に移し祀り、城鎮護の神となし、現在に至っている。(旧社格:県社) 社頭掲示板 |