多祁伊奈太伎佐耶布都神社
たけいなたきさやふつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多祁伊奈太伎佐耶布都神社 備後国 安那郡鎮座

   【現社名】多祁伊奈太伎佐耶布都神社
   【住所】広島県福山市山野町大字山野262
       北緯34度39分35秒、東経133度21分10秒
   【祭神】下道国兄彦命・大穴母智神
       大山祇命・天明玉神・加具土神・素盞鳴命・宇迦御魂神・金山彦神
       金山比売神・奇稻田姫命・日本武命・宮簀姫命・建稻種命

   【例祭】7月19日 例祭 11月3日 例祭
   【社格】旧無格社
   【由緒】由緒不詳
       明治元年式内社多那祁奈太伎佐耶布都神社と認定
       明治2年現在の呼称に復

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは馬乗山の山頂に鎮座という
        その後現在の地に

   【祭祀対象】洞窟
   【祭祀】江戸時代は「岩屋権現」「岩穴大権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・拝殿

   【境内社】

広島県の天然記念物になつている上原谷石灰岩巨大礫の穴に神社が鎭座している。
古代、当社の東にある馬乗山を拝する祭壇が岩穴内に設けられ、社殿が建立されたものだという。


多祁伊奈太伎佐耶布都神社

@當社の鎭座地即ち石灰岩の一大岩窟は、當社創祀以前よりの遺跡である。A元來わが國古代人の間には山嶽信仰があり、當社の鎭座する馬乗山に神秘を感じ、これを神として禮拝するやうになつたのが、この神社の最も原始的な姿ではないか(この神社の御神体はもと山であつたと云ふ古傳がいひ傳へられてゐる。また馬乗山の東方天徳山中に「高天原」と云ふ地名が残つてゐる)。のち岩穴に祭壇が設けられ、氏神を祭り、社殿が造営されたと考へる。B多祁伊奈太伎佐耶布都を「多祁」「伊奈太」「伎」「佐耶」「布都」に分解し、「武けき伊奈太氏の木鞘の剣」あるいは「武けき伊奈太氏の佐耶布都(剣の名)」または「武けき伊奈太氏の伎佐耶布都(剣の名)」と考へる。即ち「伊奈太氏の劔」を意味するとした。C從つて當社は伊奈太氏の氏神であると考へる。神話によると稻田氏の占拠地は出雲の「簸川上(ヒノカハカミ)」である。出雲の簸川は、斐伊川あるいは日野川と議論があるが、いつれであつても其の上流域は同じで、出雲國仁多郡鳥上村附近である。この地は砂鐵の産地で、刀剣鍛冶が行なはれた地で、稻田氏は鍛冶氏族である。
彼等は砂鐵を求めて山陽道側にも漸次進出した。つまり簸川支流域をさかのぼり備後比婆郡へ、さらに山を越えて小田川流域に進出した。小田川は備後北部に源を発し、安那郡山野村のみを流れて備中に入るから安那郡式内社たる當社は同郡山野村に鎭座すべきとしなければならない。D氏族制が発達し、氏族が氏神を中心に團結するやうになり、馬乗山の岩穴の中に祭壇を設け、稻田氏の祖先に神秘的関連のあつた或剣を紀り、これを氏神として禮拝するやうになつた。其剣は「伎佐耶布都」あるいは「佐耶布都」と称せられたので當社名が発生したと考へられ、さらに氏神に氏族の祖神を祀る風が起るにおよび、稻田氏の祖神伊奈太宿禰命を合祀したと考へられる。Eかくして當社は稻田氏と共に繁榮し、大化改新頃には岩穴を社殿の一部として神社が造営され、地方有力の神社となり、神祇官の神名帳に登録され、のち延喜式内社になつたものと思はれる。以後式内社の盛衰の中で、當神社は神佛習合・権現思想の展開によつて岩穴権現と改称され、民間の信仰を得ることになつた。F江戸時代後期國學の発展によつて、式内社が世間の注意をひくやうになり、藩誌や郷土史に式内社に関する記事を多くみるにいたつた。そのやうな背景のもとで、寛政期当社の神官平田氏は、當社を式内社多祁伊奈太伎佐耶布都神社の旧称に復さんとして吉田家へ出願した。それに対し吉田家は寛政12年(1800)「備後國安那郡山野村御鎭座磐穴権現者、爲多祁伊奈太伎佐耶布都神社旧証並二注連頭一札等被聞召候、然上者郡中無故障旨銘々印形取之式内復社號之事可願出、此旨祠窟平田出雲可令存知旨候也」と指令した。それを受けて當社が再出願したかどうか不明である。G明治元年政府の命をうけた福山藩は式内社の調査を関始した。同年八月神官平田出雲を寺社方取吟掛森島伊丹宅に召いて取調べ、同年9月1日森島伊丹以下役人が山野村に赴き、翌2日同社の現地調査を行なつた。その結果、同年10月16日福山藩は同社をもつて「多祁伊奈太伎佐耶布都神社式内二相違無之候間左之通建石可被致候」と式内社多郡伊奈太伎佐耶布都神社とした。明治2年9月藩主阿部正桓は同社例祭に出席し、武具一揃を奉納した。H明治四年五月太政官布告をもつて政府は神社の社格を制定公布した。山野村では産土神杉宮八幡神社が村社に列格し、當社は無格社となつた。
なほ昭和27年神社明細書には次のごとく當社の由緒が記されてゐる。
昔出雲地方より此の地方に進出せる稻田氏が此の巖窟を社殿となし創素盞鳴命・奇稻田姫を奉祀、其の后日本武尊九州に熊襲を征討の帰途、吉備國穴の海に暴威を振へる悪神を此の巖窟に誅し給ふ、尊崩御の後人皇21代雄略天皇の御代社殿を創立、尊及び宮簀姫命。建稻種命を合せ祀る。(後略)

多祁伊奈太伎佐耶布都神社考



多祁伊奈太岐佐耶布都神社

式内社
多祁伊奈太岐佐耶布都神社
岩穴宮 岩屋権現
また上原谷(この地名)の権現さん とも呼ばれている
ご祭神 下道国造兄彦命 高梁川より西の小田川流域地方の古い地名と思われる「川嶋縣」の国造りをされた神 下道臣の祖
大穴牟遅命 大国主命の御名で 大己貴命とも書く 当神社の古い文書に大穴母智命とも書いたものもある
  赤濱宮 伊奈多宿祢命 向って左のお社にお祀りしてあります
神社のご由緒  第21代雄略天皇の御代のご鎮座と伝えられ「日本三代実録」という古い歴史書に「備後の国 多祁伊奈太岐佐耶布都神社 従五位下を授く」とあり 1500年にも及ぶ古い由緒の神社で 延喜式神名帳に記され 祈年祭というお祭には 国から奉幣(供物)があった神社です
 権現信仰や神社名の長いこと また神主家の変遷や火災などによってか 式内社であることが 分からなくなりましたが 明治時代となる直前に式内社として改めて確認され 阿部正桓藩知事が参詣され多種の武具や幕が奉納されました
 大石灰岩の洞窟の神さびたご神域は 広島県天然記念物に指定され 学術的価値も高く 洞内は夏は涼しく冬は暖く流れ出る清水と共に参拝すると身心のやすらぎを覚えます
 現在の社殿は相殿造のようになっていますが 向って右のお社が当神社で少し大きく左のお社は赤濱宮で少し小さく建立してあります
例祭日 夏祭
秋祭 7月19日 11月3日
  ご祭神 下道国造兄彦命について
 日本書記巻十に「第十五代応神天皇の御代22年9月 天皇が淡路から吉備の小豆島へさらに葦守宮に遊び給うたとき 御友別という者が参り一族こぞっておもてなしをしたので 天皇は非常に悦ばれ 吉備国の中の川嶋縣という所を長子(長男)の稲速別に事依す是は下道臣の始の祖なり」と書いてあります この稲速別という御方が当神社のご祭神であり 下道国造兄彦の御名は尊号で 命の国造りのご遺徳を賛えてお祀り申しあげたのではないかと思われます
 日本の津々浦々の大小の神社は共通のご祭神であるお社が多いのですが 当神社のご祭神をお祀りした神社は見当りません 明治時代になって 地区内の天王社他のお社の神々を 当神社へ合祀しましたので それ以後 当神社を紹介した文書には 素盞嗚尊 奇稲田媛などの神々をお祀りしてあるようになっていますが これは この合祀によってつい誤りが生じたものと推定されます 式内社として再確認される前後 ご祭神二座のうち いずれの御神が主神であるか調査報告するようにとの通達に下道国造兄彦命が主神であると報告されており掲示の神がご祭神です
(追記)
 岡山県矢掛町の町はずれに 下道氏の墓というのがあり 史蹟公園となり 真備公という方の顕彰石碑が 矢掛町により建てられています

社頭掲示板



多祁伊奈太岐佐耶布都神社

岩穴宮 (天然記念物巨大礫)
本社は延喜式内社にして、俗に岩穴宮と呼ばれ、神社名は多祁伊奈太伎佐耶布都神社と云ふ。大古素盞嗚尊が八岐の大蛇を斬り給ひし時、用ひたる剣を祠ったのが神社の始りと云。祭神は素盞嗚尊、奇稲田姫命。後、日本武尊が穴海の海賊を討ち追って当岩穴附近に於て平定されし故に同尊を合祠してある。摂社赤濱宮は稲田宿祢命を祭神とす。此の洞窟全体が巨大礫であることが広大の楠見、今村両教授により発見された。

社頭掲示板



多祁伊奈太岐佐耶布都神社

上原谷石灰岩巨大礫 広島県天然記念物
 赤色の凝灰岩質礫岩の上に、驚異に値する巨大な石灰岩塊(高さ30m、幅33m、奥行35m以上)があり、この岩塊の下部はほら穴となり、天井から鍾乳石が垂れ、下から石筍も成長しています。このような巨大礫がここに存在するのは、この上の穴迫に移動してきた石灰岩の地塊の一部が崩壊し転落したものであろうと推定されています。
 ほら穴には、多祁伊奈太岐佐耶布都神社(岩屋権現)が祀られており、原始信仰の名残りをとどめています。

社頭掲示板



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