日売坂鍾乳穴神社
ひめさかかなちあなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】日売坂鍾乳穴神社 備中国 英賀郡鎮座

   【現社名】日売坂鍾乳穴神社
   【住所】岡山県新見市豊永赤馬6352
       北緯34度58分54秒、東経133度36分17秒
   【祭神】大己貴命
       (配祀)誉田別命 素盞嗚命 吉備津彦命 太玉命 倉稻魂命 保食神 大日靈命
          櫛明玉命 豐玉彦命 瓊瓊杵命

   【例祭】11月11日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平勝宝2年(750)行基が伊邪那岐、伊邪那美の二神を勧進
       貞観元年(859)曲薬頭洞穴から石鐘乳を採
       天長年間(824−834)社殿造営
       鎌倉時代本宮山頂から現社地に移転
       元禄14(1691)「日搭{大明神」
       文化12年(1815)造営
       明治5年旧社名に復活
       明治5年村社
       明治40年5月神饌幣帛料供進社指定
       昭和5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は本宮山頂
        鎌倉時代本宮山頂から現社地に移転

   【祭祀対象】本来は鍾乳穴を祀る
   【祭祀】江戸時代は「日搭{」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造銅板葺
       拝殿・釣殿・神饌殿・神楽殿・随神門・社務所・神輿庫・鐘楼

   【境内社】明日名門神社・若宮神社
   【別当】三尾寺

本宮山中腹には日桃竢゚乳穴(ヒメサカカナチアナ)と呼ばれる鍾乳洞がある。この鍾乳洞が神のいる霊地として崇拝され、入口に近い山上に神社が創建されたものであろう。
社伝では行基が三尾寺を建立し、その鎮守の神として天平勝宝2年(750)伊邪那岐、伊邪那美の二神を鍾乳洞の頂上に勧進したのが始まりと云われている。その後、鍾乳洞の頂上から現在地に遷された。その時に大己貴命を合祀した。
清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯嗣を備中に遣し、此の洞穴から石鐘乳(いしのちち)を採った。 
明治七年の『式内二十二社明細帳』にも、祭神は伊弉諾・伊弉冉二神とみえている。合祀と県社への昇格運動が行なわれる過程で祭神の変更があつたようである。


由緒

本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺(みをうじ)を草創せらるるや山門鎮守の神として天平勝宝2年大洞穴の頂上本宮と云ふ所に伊弉諾伊弉冉命を勧請し給ひしものなり大同2年弘法大使三尾寺を中興し給ふや本社も隆昌を来し淳和天皇天長の年社殿を築き奉る当時洞内に石鐘乳(いしのちち)と称する薬石を産し名高く清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯嗣を備中に遣し此の洞穴より石鐘乳(いしのちち)を採らしめ給へり醍醐天皇延喜5年に端し給ひし延喜式神名帳備中十八社の中に英賀郡(あがぐん)呰部郷(あざべごう)比売坂鐘乳穴(ひめさかかねちのあな)神社として記載されたる由緒正しき神社にして所謂式内と称する崇厳なる神なり其後本宮の東方平地に社殿を築き日搭{(ひめみや)明神として遷座し奉り大巳貴命を祀爾来三尾寺が別当職として本社の祭典社人の管理をなし寛永4年前殿を築き文化12年4月本殿を再建立せらる之れ現存せる社殿なり。
明治照代の世となり神仏分離され明治5年村社に列し社掌を任命して神社を管理せしむるに至れり明治40年5月神饌幣帛料供進社に指定せられ同42年拝殿の改築社務所を新築して無格社を十社を合祀し社運益々隆盛に向へり爾来氏子一同由緒正しき式内社なれば県社に昇格し奉らんと協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り昭和5年10月県社となる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




日売坂鍾乳穴神社

この神社は、中国縦貰自動車道の北房インターチェンジから西北へ約12Km、国道31号線を経て、上房郡北房町皆部から県道・北房-井倉-哲西線の急峻な道を上がった、標高約300mのカルスト台地上の、新見市豊永赤馬6352番地にある。もと県社。
この神社は、同所の三尾寺の緑起によると、大同2年(807)に弘法大師が三尾寺を中興したとき、山門の鎮守として、現社地の西方約200mのところの、日桃笘B乳穴という鐘乳洞がある本宮山頂に祭ったもので、その後、鎌倉時代になって現杜地に移し祭ったと伝えられる。そのときから、社名を"日搭{”と略称するようになったといい、現在でも地元では“ひめみや"または“ひめのみや"と呼んでいる。本殿の額には“日桃竦_社"と書かれているところから、そのように称した時期もあったようである。現在は、日桃站セ乳穴神社と書く。
祭神は、主神が大己貴命(大国主命の別名)で、素盞鳴命、櫛甕玉命、倉稲魂命、保食神、大玉命、誉田別命、吉備津彦命、大日霊命、豊玉彦命、瓊々杵命を配祀するとしている。
社殿は、広大な境内地の奥に南東向きに建てられており、本殿は、文化12年(1815)の建築になる、正面三間側面二間、千鳥破風付き・入り母屋造り(唐破風向拝付き)・銅板葺き(もとは桧皮葺き)で、備中地方に多くみられる建築様式のものである。
境内の末社には、明日名門神杜(別名鬼神社)、国司神社、荒神社など六社がある。



日売坂鍾乳穴神社

本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺(みおうじ)を草創するや山門鎮守の神として天平勝宝2年大洞穴の頂上本宮という所に伊弉諾伊弉冉命を勧請したものである。
 大同2年弘法大使三尾寺を中興すると本社も隆昌を来し、淳和天皇天長年間に社殿を築いた。当時洞内に石鐘乳(いしのちち)と称する薬石を産し名声を上げた。清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯嗣を備中に遣し、此の洞穴から石鐘乳(いしのちち)を採った。 
 醍醐天皇延喜5年の延喜式神名帳備中18社の中に英賀郡(あがぐん)呰部郷(あざへごう)比売坂鐘乳穴(ひめさかかなちのあな)神社として記載されたる由緒正しい神社であり、所謂式内と称する崇厳なる神である。
 その後本宮の東方平地に社殿を築き日め宮(ひめみや)明神として遷座し、大巳貴命を祀る。爾来三尾寺が別当職として本社の祭典や社人の管理を行い、寛永4年前殿を築き文化12年4月本殿を再建立した。
 これが現存している社殿である。明治に入ると神仏分離が行われ、明治5年村社に列し社掌を任命して神社を管理させた。明治40年5月神饌幣帛料供進神社に指定され、同42年拝殿の改築及び社務所の新築を行い、無格社10社を合祀し、社運益々隆盛に向かった。
 爾来氏子一同由緒正しい式内社であるので県社に昇格しょうと協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り昭和5年10月県社となる。

岡山県神社庁



日桃竢燗穴神社お田植祭

新見市指定重要無形民俗文化財 昭和55年11月8日指定
日桃竢燗穴神社お田植祭
この祭は毎年旧暦3月19日の御崎大神の当番受けに始まり、赤馬地区を主基当番(春当)、佐伏地区を悠基当番(秋当)と呼び、両地区から輪番で各地区の当番組みを決める。
お田植祭は旧暦6月11日に行われ、当日は両当番組による祭典を行うとともに、境内に注連縄を張った神田をつくり祭壇を設ける。祭典が終わると神田で神職が神楽を奉納し、ついで主基・悠基両当番組が獅子頭を牛に見立てて牛鍬による耕田・鍬代・籾種おろしを行う。お田植は両当番組十六名が前後二列づつに並び、神職から受け取った苗に見立てた杉の葉を奏楽に合わせて前列は後ろに、後列は前に投げる。これを三回繰り返し、最後に神職が豊作祈願の神事を行う。
なお、お田植えに用いた杉の葉を持ち帰り、田畑に立てておくと豊作間違い無しという伝承がある。
新見市教育委員会

社頭掲示板



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