仁徳天皇の勅令により吉備津神社の5社の神殿が創建されたその1社として建立され、特に別宮と称せられた。 鵜江の由来は吉備津彦命が崩御され、御体を中山の南峰に埋葬するとき、御棺が鳴動し1羽の鵜(荒魂)が西方に飛び出て、その止まる所(当地)を鵜の里と称し、吉備津彦命の荒魂を鎮め奉らんと神社を建立した事による。 式内社「鵜江神社」の旧地が大元鵜江神社で、継承しているのが西川面の鵜江神社。 |
鵜江神社 この神社は、国鉄・伯備線清音駅から県道・倉敷〜井原線(旧・山陽道)を小田川沿いに西へ約18Km、矢掛町役場からは西へ約3Kmの、小田郡矢掛町西川面字宮本1334番地にある。もと郷社。 社伝によると、仁徳天皇の勅命によって創建された吉備津神社五社の神殿と72宇の末社のうちの一社であり、古くから吉備津神社の別宮と称されていたという。 江戸時代には“卯之宮大明神”と称され、現在の矢掛町の西半分(川面・江良・本堀・浅海)と小田郡美星町の南東部(水砂・宇内・黒木・星田)の地域の総氏神であったが、明治初年に旧号である現社名に復し、現在ではこれを“うごうじんじゃ”と称している。 なお、矢掛町東川面の大元鵜江神社、同町小林の鵜江神社、同町宇内の鵜成神社は、それぞれ式内社の鵜江神社と深い関係があると伝えられている。 祭神は、吉備津彦命(第7代孝霊天皇の第五子。四道将軍の一人で、桃太郎伝説のモデルとされている)であるが、楽々森彦命とする説(『大日本史』)もある。 社殿は、南面して建てられており、本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・銅板葺き(もとは桧皮葺き)で、木部はベンガラで朱色に塗られている。 境内の末杜には、暁神杜、厳島神社、黒丸神社、里吉神社、若宮神社の五社がある。 社頭掲示板 |
鵜江神社 本神社は延喜式内社で文徳実録所載の神社であり、従五位下に叙された。 仁徳天皇の勅令により吉備津神社の5社の神殿が創建されたその1社として建立され、創建は1600年以前とされ特に別宮と称せられた。 現在の本殿は、永禄7年(1564)西川面城山城主渡邊河内守藤原資家の寄進により再建される。(棟札現有)また、仁徳天皇が当神社に立ち寄られたことが小田郡誌に見える。 明治40年1月神饌幣帛料供進神社に指定された。本殿は創建以降11回の屋根葺き替えを行っている。 鵜江の由来は吉備津彦命が崩御され、御体を中山の南峰に埋葬するとき、御棺が鳴動し1羽の鵜(荒魂)が西方に飛び出て、その止まる所(当地)を鵜の里と称し、吉備津彦命の荒魂を鎮め奉らんと神社を建立した事による。 古くは流鏑馬の神事があり、名残りとして、鎌倉時代とされる弓矢等が奉納されている。また、昭和初期までは、秋の大祭に近隣(笠岡、井原、金光、鴨方、美星、真備)の大人が集って大相撲の奉納があった。 秋の大祭(4日間)では初日御波解(おはげ)祭があり大当番屋宅の庭に棟より高く竹組みを立て降神の目印として神迎えの神事を行う。大祭最終日に昇神の神事の後この竹を氏子の当番組が倒して持ち帰る。この竹を農耕に使用すれば五穀豊作となると伝えられている。 岡山県神社庁 |