穴門山神社
あなとやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴門山神社 備中国 下道郡鎮座

   【現社名】穴門山神社
   【住所】岡山県高梁市川上町高山市1035
       北緯34度44分39秒、東経133度23分31秒
   【祭神】天照大神 倉稻魂神 (合祀)足仲彦命 穴戸武姫命
   【例祭】11月3日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇54年創立
       寛永9年(1632)焼失
       寛永14年造営
       明治6年郷社
       昭和18年県社


   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は洞窟を祀る
   【祭祀】江戸時代は「赤浜宮」と称していた
   【社殿】本殿流造柿葺
       幣殿・拝殿・神庫・社務所・本門・随神門

   【境内社】須佐之男神社・弥高山神社・天神社・川平八幡神社・丸石神社

豊鋤入姫命が、天照大神を紀伊国奈久佐浜宮から備中国名方浜宮(現在の穴門山神社)へ奉遷し、4年間奉斎した。
『倭姫命世記』にある天照大神を奉斎した豊鍬入姫命が4年間滞在した「名方浜宮」の候補地の一つ


穴門山神社

式内社 穴門山神社
 式内社とは、延喜式の巻九および巻十の「神名帳」に列する神社のことで、社格を権威づける官社となっている。延喜式は平安後期の延長5年(927)に撰上され、五十巻から成り、朝廷の儀式、行政の実施に関する規範である。当社は延喜式巻十に、備中国18社の中にその名があげられ、朝廷崇敬の神社であったことは事実である。
 創立は崇神天皇54年と言われているが、延喜、延長の時代はこの神社は、備中国下道郡長田山と記されており、その地名にまつわる神々の伝説も多い。
 倭姫世記という古書によると、崇神天皇から、天照大神のご神体である御鏡を、「何処へおまつりしたらよいかさがしてこい」という命を受けた豊鋤入姫命が、紀伊国奈久佐浜宮より備中国名方浜宮(現在の穴門山神社)へ奉遷し、四年間奉斎したと記されている。朝廷の当社に対する崇敬のあつかったことがうかがえる。
 祭神は、天照大神、倉稻魂大神(豊受大神ともいう)そして日本武尊 の第二王子足仲彦命、吉備武彦命の娘で日本武尊の妃である穴門武姫命の四柱を併祀している。
 社殿は寛永9年(1962)秋焼失したものを、備中松山城主の池田出雲守長常が、寛永14年(1637)再建寄進した。権現造りの建築様式で、特に本殿妻側は懸魚、虹梁、支輪、斗?組みで装飾性が高く、余り県下にその例がなく県指定である。
 まわりの社そうは、県指定の天然記念物であり、昭和5年10月京大、田代善太郎先生の調査によると、438種の植物が記録されており、その種類の多いので注目されている。神木のカツラは樹齢推定700年、株周囲8.93m、樹高30m。
 神木は本門そばの石段上の大杉と境内崖下のカツラである。

社頭掲示板・岡山県神社庁



穴門山神社

御神窟
洞窟の地学  この洞窟は奥行100m、最大内径10mの吐出型水平型である。石灰岩の中に出来た板状の割目を伝う地下水が岩を溶かして出来たものである。このあたりの吉備高原は今から数百万年前頃は、海面に近い土地であったが、一帯は隆起を繰り返して現状の標高になった。隆起の過程でだんだんと地表の水の侵食で、下に下にさがったために、洞窟は高さを増していく。底の平たいのは隆起による一時休止期を示す。また、穴幅の狭さ、鍾乳石の無かったりするのは、地下水の量や流れの方向に変化が起ったものと思われる。
洞窟の内部  洞窟の入口の中央には、入口をふさがんばかりの球形の巨岩がでんと座っている。それは遠い昔の神話にある天の岩屋、天の岩戸に似て、その岩戸を押し開いて天照大神をお連れ出し申し上げた、怪力の手力男命の勇姿をも想像できて神々しさがある。司祭者は洞窟の巨岩の福石より奥に進み、ご祭神を拝礼するが、一般参詣者は福石の前に立ち、一家の万福を祈願するのである。
福石の由来  昔富貴なお方が当社へ参詣し、終夜参籠をしていると、少し眠気がして、夢に白衣の神人が現われ、洞内の入口を指さされた。そこには無数の金の蟹がうごめいていた。「お前は信心深い働き者だから、その一甲を与える」と言われた。松の風音で目がさめてみると、洞窟の入口に無数の金塊があったので、ご神託の通りその一塊を頂き、村に帰ってからは益々福運が開けて大金持ちになったと伝えられる。その入口にあった無数の金塊の金蟹は結集して福石になったと伝えられ、その後福運を祈願して参詣する人が多い。
平成4年6月建之

社頭掲示板



穴門山神社

この神社は、国鉄・伯備線備中高梁駅から西へ約30Km、国道313号線の成羽・地頭から県道・高山市〜地頭線を経て、高山市の集落から北々西へ2.5Kmほど谷を下ったところの、川上郡川上町高山市字宮山1035番地にある。もと県社。
この神社は、本殿わき(向かって左手)に鐘乳洞があるところから社名が起きたといわれ、地元ではこの神社がある場所(地名)にちなんで“高山さま”という人も多い。古くは“赤浜宮”とか“名方浜宮”の名称でも呼ばれていた。
祭神は、天照大神(天皇家の始祖)、倉稲魂命(稲荷大明神)、足仲彦命(日本武尊の第二子)、穴門武媛命(日本武尊の后。吉備武彦命の娘)の四柱とされている。
社殿は、寛永9年(1632)に焼失したものを、寛永14年(1637)に備中松山城主池田出羽守長常が再建・寄進したといわれ、山の中腹の断崖を背にして南々東向きに建てられている。本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・銅板葺き(もとは柿葺き)の装飾性が非常に強いもので、昭和52年(1977)に岡山県重要文化財に指定された。
境内の末杜には、外出神社、玉井神社、三和神社、磐屋神社など七社がある。
この神社の社叢は、岡山県西北部の山地林相の典型として、昭和31年(1956)に岡山県天然記念物に指定されている。



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