穴門山神社
あなとやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴門山神社 備中国 下道郡鎮座

   【現社名】穴門山神社
   【住所】岡山県倉敷市真備町妹895
       北緯34度38分41秒、東経133度38分46秒
   【祭神】穴門武媛命
       (配祀)天照大神 倉稻魂神 仲哀天皇 少名彦命
       (合祀)大己貴命 下照姫命 天穗日命 活津彦根命 市杵嶋姫命
       神皇産靈神 三熊野大神 天稚彦命 田心姫命

   【例祭】10月23日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創始の年代不詳
       妹村長田という場所に古くから祀られていた
       江戸期には所在不明
       寛保三年(1743)に再興を計画し神鏡を地中より得る
       明治8年7月30日式内社認定
       明治8年8月25日式内社認定取り消し

   【関係氏族】
   【鎮座地】妹村長田に古く祀られていた
        寛保三年(1743)現在地に再興

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「赤濱宮」と称していた
   【社殿】本殿
       釣殿・幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】荒神社・三島神社・八千鉾神社・水神社

「往古より此山に無名の小社ありしを、寛保3亥の春再興せんとて、土人此地を開きしに一つの神鏡をさく出せり。其形六角にして径三寸、裏に蜻蛉の形を鋳付たり。然れとも年久しく土中に埋れありし故に、其状明かならず。漸く號て神鏡なりとし、是より祭日を定め、穴門の神社赤濱宮と称す」と伝わっている。
当社を『倭姫命世記』にある元伊勢の一つ「名方浜宮」に比定する説もある。


穴門山神社

本神社は創立年月不詳ではあるが、祭神は穴門武姫命を祀る。また、延喜式(下道郡)に穴門山神社と見える。
 社伝によると、社地の正面南方数町に馬場、また遊場、示場、神子免、宮地、殿田等の地名があり、吉備の名方の浜の宮もこの地であると伝えている。また、諏訪山の城主が厚く崇敬し、武運を祈った。
 後柏原天皇の永正年間、出雲の懸合の城主が大挙して、来襲し、西鷲峯山小ヶ谷に陣を置いたが、難攻累月で陥落しなかった。これは神のご加護によるものとして社殿に火を放ち、神器、神宝、古文書等悉く焼き払った。郷民は相談して、川上郡高山村に当社の行在所を設けて避難した。
 その後兵乱が続き、再興する時期がなかったが、東山天皇の宝永元年7月、青穂五社大明神の神主三島美濃、許状拝受のため上京し、吉田三位侍従兼敬から、「穴門山神社は下道郡五社の一つであるのに上京しないのは何故なのか」との下問されたので、状を具して答申した。
 中御門天皇享保5年庚子3月吉田家から、再興の命があり、岡田藩主従五位下伊藤播磨守長救が社殿を建築し同年9月24日遷宮を執行した。
 その後延享2年乙丑藩主従五位下伊藤若狭守長丘、拝殿増築を行い、神輿1基を奉納した。この時社地を開墾すると、古鏡が出土した。その古鏡は、200年前兵火で失った神鏡であるとして、藩の官庫に保管し、祭日(9月24日)には重臣を派遣して社殿に安置して警備した。明治維新後、社殿に奉祀して今日に至っている。
 明治5年郷社に列格。同年小田県から式内神社と定められる。同年12月、同名の神社が川上郡高山村にもあって、どちらとも決定し難いとして明治8年7月両社とも、式内とする旨の通達があったが、同年八月式外と再通達があった。
 明治43年4月1日及び同年9月15日、村内無格社18社を合祀した。

岡山県神社庁



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