「第40代天武天皇が、この地の行宮にあったとき、大友皇子の軍と戦って(筆者注:いわゆる壬申の乱の一端)大勝したので、小祠を建てて崇敬した。それが現今の横田神社である。」という伝説がある。 かつては鎮座地の西方の小字別所地区にある徴林山勝福寺が神宮寺だった。 |
横田神社 この神社は、国鉄・伯備線総社駅から西へ約7Km、県道・倉敷井原線の久代地内から北へ100mほど入ったところの、総杜市久代3632番地にある。もと村社。 社伝によると、古くは天神宮と称していたが、のちに現社名に改号したという。神社に伝えられる天正13年(1585)銘の棟礼には、「奉上棟天神宮一宇造立依惟神光遠福徳無辺除處大日本國山陽道備中国中釧村爰大檀那源朝臣宍戸安龍元孝敬白神主名木田権之進願主福田與三右衛門護家安人矣 于時天正十三乙酉年九月吉祥日」とあり、神社名は天神宮とされているが、境内にある天保7年(1836)建立の石碑の碑文には横田神社と記されている。 『吉備郡神社誌』には、「第40代天武天皇が、この地の行宮にあったとき、大友皇子の軍と戦って(筆者注:いわゆる壬申の乱の一端)大勝したので、小祠を建てて崇敬した。それが現今の横田神社である。」という伝説が載せられている。 祭神は、天穂日命(天照大神の第二子)とされている。 社殿は、文政10年(1827)に完成したもので、南面して建てられており、本殿は、正面三間一側面二間、入り母屋流れ造り・桧皮葺きで、周囲には近年設けられた板垣が巡らされている。随神門から拝殿までの約24mには、幅1.8mの回廊がある。 境内はかなり広く、末社には天神社、龍田神社、広瀬神社、荒神杜がある。 |
横田神社 當州下道縣久代村横田廟天穗日命祠也天穗日命者天照大神第二之子也土人傳言素盞鳴尊子其然哉當村建廟無知其始按當州十八社名載延喜式等書而横田廟在其中則其久遠可知也廟旧號横田神社蓋因其地名也後改天神宮今後旧號言古者當邑中挙爲産土神後枝邑往々立祠置所尊尚神是爲生土神以故奉横田神社之人梢々相減廟日月荒棟傾級夷無財給修費放置数十年及是里生渡邊綱隆深病之宝暦丁丑秋伐廟之裔木繋之得白銀一枚以爲母銀称貸盆之月積歳累至寛政季中所得母子銀爲若干枚古人曰土積成山其是之謂乎於是欲改作廟雖己画挙折哀老日加不能遂志使男綱弘代爲自是之後弘興男縷遵其基業(中略)天保丙申孟秋奥田盛香撰渡邊綱縷建 監人夫福田貞信 労力當村中 廟祝名木田位悦 社頭石碑 |
横田神社 横田神社は、その創立年代は不詳ですが、平安時代の927年に編纂された「延喜式」に所載された「式内社」です。当時、この「延喜式」に所載された神社(式内社)は、毎年の祈年祭にあたり国家的な奉幣を受け、他の一般の神社とは別の待遇を得ていました。総社市内には、この横田神社を含めて式内社は七社あります。 境内にある天保7年(1836)に建立された石碑や社伝によると、横田神社は、嘉承4年(851)に正六位上、貞観元年(859)に従五位下の神階を授けられましたが、中世には衰微し、天正13年(1585)に天神宮として再建されたといわれています。のち、宝暦7年(1757)に社殿が大破しましたが、文政10年(1827)には修理が完了して遷座式が行われています。 その後、天保7年(1836)頃までの間に横田神社と改称し、さらに整備がなされたといわれています。 御祭神 天穂日命(あめのほひのみこと) 御祭日 10月21日・22日 社頭掲示板 |
横田神社 本神社の創建年代は不詳であるが、平安時代の927年に編纂された延喜式に所載された式内社である。 当時、この延喜式に登載された神社(式内社)は、毎年の祈年祭には国家的な奉幣を受け、他の一般神社とは別の待遇を得ていた。総社市内にはこの横田神社を含めて7社の式内社がある。 境内にある天保7年(1836)に建立された石碑や資料によると、当社は中世に衰微し、天正13年(1585)天神宮として再建され、更に文政10年(1827)頃から天保7年(1836)頃に横田神社と改称して整備された。 また、現在の社殿は文政10年(1827)頃に完成した。 岡山県神社庁 |