石畳神社
いわだたみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石畳神社 備中国 下道郡鎮座

   【現社名】石畳神社
   【住所】岡山県総社市秦3995
       北緯34度42分7秒、東経133度43分16秒
   【祭神】経津主神
   【例祭】9月10日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       天正3年(1575)祭礼の記録
       明治40年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】本来は石を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿なし
       拝殿

   【境内社】

高梁川の渕にそそり立つ高さ約55mの巨石柱がご神体。


由緒

延喜式内の神社にして、上古より神殿を設けず20数米の磐石を以て神の御室と定め石畳の神と奉称す。大和の国三輪の大神の三輪山を以て神の御室と定め給えるが如し。
万葉集に(石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友なくに)とあり。また祭田の遺跡あり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石畳神社

この神社は、国鉄・伯備線豪渓駅から南々西へ約1Km、高梁川に架かる豪渓秦橋の西詰めの、総杜市秦字石村3995番地にある。もと村社。地元では、石畳神社と称している。
祭神は、経津主神(天日鷲尊の別称。太玉尊の子で、武・忌部・麻・商業などの神様)とされているが、実は高梁川の渕にそそり立つ高さ約55mの巨石柱がご神体という、岡山県下では珍しい神社である。この石柱に連なる西方の山を、地元の人は茶臼岳と呼んでいる。
この巨石柱が非常に立派なものであるところから、昔から諸書がとり上げている。
古川古松軒(1726〜1807。蘭医・地理学者。現総社市出身)の『古備之志多道』には、「当国十八座の一なり。此神の事跡を土人茶臼嶽の事なりと言ふ。山の頂き茶臼の容をなせり。因て称するなり。此山瞼岨の岩山にて小杜にても建つ山にあらず。昔時は定て此山の傍に小社にても有りし事にや。石畳と称するにより此岩山を崇むるにや。旧記なき故に詳ならず。備中名所記には石畳山と記して和歌あり。万葉  石ただみさかしき山と知りながら我は恋しく友ならなくに 此巌峨々たる即神体なりと備前の大森が語りし。上代の事はさもあるべし。いと殊勝なり。」とみえる。
祭神については、昔の諸書にはこの巨石柱をご神体とするとのみ記されている。
社殿は、南側の小高いところに、昭和30年に改築されたという、簡素な拝殿のみがある。



石畳神社

本神社は本殿がなく、大自然石を御神体としている。創建年代、由緒等は不詳である。明治40年5月22日村社に列した。

岡山県神社庁



石畳神社

祭神の経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。
磐座信仰の秦氏との関係も注目される。
また一説には、神武天皇に与えた刀である布津御霊(ふつのみたま)を神格化したものであるとも言われている。
石畳神社は、古来より本殿を設けず高梁川が大きく曲がる淵に聳(そび)える約60mの大岩塊(石柱・磐座)を霊代(よりしろ)ー神霊が招き寄せられて乗り移るものーとしてお祀りをしている。
万葉集に「石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友ならなくに・・・」と詠われている。
高梁川は古代の人々にとって、水運と灌漑の両面において極めて大切なものであったに違いなく、その高梁川は暴れ川で洪水による被害が多く川の氾濫を鎮めるために祭祀されたのではないかと思われる。
拝殿は御神体の大岩塊(石柱・磐座)の真下にあったが、昭和30年旧「旧豪渓秦橋」を架ける時現在の所に移転され、当時は屋台も出て参拝者も多く盛大にお祀りが行われていた。
また、橋のない頃は、豪渓駅へは渡し舟で行き、また福谷地区との往来は御神体を取り巻くように、川の中に造った道を歩いていたが、昭和22年頃にご神体の磐座にトンネルを造り、交通の便が一段と良くなった。
平成27年10月 秦歴史遺産保存協議会

社頭掲示板



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