吉備津神社
きびつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】吉備津彦神社(名神大) 備中国 賀夜郡鎮座

   【現社名】吉備津神社
   【住所】岡山県岡山市北区吉備津931
       北緯34度40分15秒、東経133度51分2秒
   【祭神】大吉備津彦命
       (配祀)日子刺方別命 倭飛羽矢若屋比売命 千千速比売命 大倭迹迹日百襲比売命
       御友別命 若日子建吉備津彦命 中津彦命 日子寤間命

   【例祭】10月19日 例祭
   【社格】旧国幣中社 備中一宮
   【由緒】承和14年(847)10月従四位下
       承和15年2月従四位上
       仁寿2年(852)3月四品
       仁寿8年8月封対戸二十戸
       齊衡2年(855)勅使奉幣
       天安元年(857)6月三品
       貞観元年(859)正月二品
       天慶3年(940)2月一品
       応永32年(1425)造営
       天正8年(1580)毛利氏の部將清水宗治検地
       明治4年国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 吉備津神社
   【社殿】本殿吉備津造檜皮葺
       拝殿・北随神門・南随神門・御釜殿・回廊・齋館・儀式殿
       神饌所・参寵所・御供殿・文書庫・宝物庫

   【境内社】本宮社・岩山宮・一童社・宇賀神社・滝祭神社
        大神宮・春日宮・八幡宮・えびす社・祖霊社


@吉備津彦命の五代の孫、加夜臣奈留美命(カヤノオミナルミノミコト)が「吉備の中山」の麓の「茅葦宮」という齋殿の跡に社屋を営み創始。
A若日子建吉備津日子命の三代の孫に当る稻速別命・御友別命・鴨別命が初めて社殿を造つた。
B仁徳天皇が吉備海部直の娘黒媛を慕つて難波から吉備国に行幸したとき、吉備津彦命の功を嘉して社殿を創建してこれを祀つた。
上記の3説の創始伝説がある。


由緒

一、鎮座地、岡山市吉備津931
一、御祭神、大吉備津彦大神並に配祀神八柱の神
一、由緒、御祭神は第7代孝霊天皇の皇子にましまし、第10代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅と言う悪者を平らげて平和と秩序をきずき、この地に宮をいとなまれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない給い、長寿を以てこの地に薨去せられました。 
社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸したもうた時、御創建になったもので、後、延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてまた長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。
一、本殿、拝殿(国宝)現在のものは約560年前の応永年間の再建で室町時代初期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国唯一の形式として国宝中の国宝である。
一、南隋神門、北隋神門−共に重要文化財(旧国宝)である。
一、回廊(県指定)延長400m余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全国にも稀な建物で著名である。
一、本宮、回廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。
一、御竃殿(重文)釜鳴りの神事が行なわれている。お釜の鳴動の音の大小長短によって吉凶禍福を卜(ボク)するのである、その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨月物語」などにも紹介されて天下に有名である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




吉備津神社

吉備津神社案内
一、鎮座地 岡山市吉備津931
一、御祭神 大吉備津彦大神並に配祀八柱の神
一、由緒
御祭神は第七代孝霊天皇の皇子にましまし、第十代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅と云う悪者を平らげて平和と秩序をきづき、この地に宮をいとなまれて吉備の国の人々のために殖産を教え・仁政を行い給い、長寿を以てこの地に薨去せられました。社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸し給うた時、御創建になったもので、後、延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてまた長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。
一、本殿・拝殿(国宝)
現在のものは約560年前の応永年間の再建で室町時代初期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国唯一つの形式として国宝中の国宝である。
一、南随神門・北随神門 共に重要文化財(旧国宝)である。
一、廻廊(県指定)
延長400m余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全国にも稀な建物で著名である、
一、本宮
廻廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。
一、御竃殿(重文)
釜鳴りの神事が行われている。お釜の鳴動の音の大小長短によって吉凶禍福をト(ボク)するのである。その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨月物語」などにも紹介されて天下に有名である。
一、主な御祭日
春季大祭 5月第二日曜
秋季大祭 10月第二日曜
えびす祭 1月9日〜11日
毎月10日
月旦祭 毎月1日
月次祭 毎月13日
御神徳について
寿命の守護神として
御祭神は非常な長寿を保たれておなくなりになり、社後の吉備中山に葬られていますので、古来私たちの寿命をお守り下さる神様として深い信仰を得ておられます。
産業の守護神として
吉備の国が古来文化の花を咲かせたのは、御祭神の開拓せられた尊い御神徳によるもので、士農工商すべての方々からその祖神として崇敬されてきましたが学者の最近の研究では、鬼を征伐せられたことはいち速く大陸の鉄文化を取り入れられたことであり、砂鉄による製鉄の技術をひろめられたことを意味します。岡山県が古くから砂鉄による製鉄の技にすぐれ、優秀な日本刀を産出しましたことも、御神助によるものとして近来は特に工業関係者・運輸交通業者はその守護神として崇敬されています。
安産育児の神として
桃太郎童話は御祭神の御事蹟を童話化したものと云われていますが、御祭神の奥方百々田弓矢姫命は古来安産育児の霊験あらたかな神様で、桃太郎のような丈夫な子供に育つようお守り下さるとの深い信仰が御座います。
なお国名「吉備」の文字は古く「黄薇」と書きましたが、それは社後の吉備中山に黄色の「わらび」が生えたからであり、このわらびを食すると立派な子供を授かるとの伝えがあります。昭和七年岡山県知事篠原英太郎氏の祈願により吉備中山のわらびを皇后陛下に献上せられましたところ、翌年皇太子殿下が御誕生になりましたので、御神助のあらたかさに驚いた次第で御座います。
御祭神と虚空蔵菩薩
明治維新前は神と仏を一つに見て、神様に仏様をあてはめて信仰して参りました。当事大吉備津彦大神には虚空蔵菩薩をあてていますが、この仏様は私たちに智恵を授けて下さる仏様で、御祭神は学間芸術の守護神との信仰があり進学される方々がお参りになるのも当然なことと存じます。

由緒書



吉備津神社

吉備津神社案内
鎮座地 岡山市吉備津931
御祭神 大吉備津彦大神(吉備の国の御祖神)
御神徳 古くよりご祭神は、吉備の国の殖産興業総親神として崇敬され、延命長寿のご威徳は申すまでもなく、「桃太郎さん」にたとえられる如く生成育児の守護神であり、又神仏混淆時代には、虚空蔵菩薩に擬せられているように智恵、学業の守り神として信仰も広く集めてまいりました。この御神徳を慕って今日でも「延命長寿」の祈願は勿論「年祝」(安産、初宮詣、誕生祝、七五三詣、成人式、結婚式、厄祓、算賀等)「交通安全」「学業成就」「事業所安全、繁栄」「建設工事安全」等の諸祈願をする人々が毎日毎日御神前にあふれ、高遠な祖神様の御神恩をうけて日々の生活の安心立命の糧となされています。

社頭掲示板



吉備津神社

當 社 案 内
御祭神 大吉備津彦大神 外八柱 の神
御祭神は四道将軍んお御一方として吉備の国にお出でになり兇賊を鎮定し、拓殖に當たられ御子孫が當国に繁衍せられました。仁徳帝の御代吉備の国の総鎮守として御創建になり、後各国に一宮の制が定められた時、當社は特に三備の一宮(備前・備中・備後)と稱て、古来山陽道の総鎮守として、世人の崇敬を集め、又産業の守護神として、延命長寿の御霊験あらたかな神として篤く信仰されています。
(備前国一宮 岡山市一宮 吉備津彦神社)
(備後国一宮 広島県芦品郡新市町 吉備津神社)
本殿・拝殿
室町時代應永32年(約550年前)の再建で全国唯一の様式なので「吉備津造」と稱せられ、国宝に指定されて居り県下最古の文化財で御座います。
本宮社(内宮・新宮 合祀)
長い廻廊の南端にあり、當社五所明神中の社で安産育児の霊験あらたかなので名高い。
岩山宮
背後の山腹に鎮座。當社五所明神中の一社で吉備の国の国魂の神をおまつりして御座います。
竃殿
慶長17年(約360年前)の再建で岡山県重要文化財に指定されて居り、そのお釜の御鳴動神事は古来全国に有名で御座います。
一童社
学術神・遊芸の神をおまつりしてあり、徳川期の国学者達も篤く振興した社で近時は進学する人々が信仰して居られます。
宇賀神社
神池の島に鎮座し御祭神の稲荷の神は吉備の国最古の稲荷神で御座います。
南・北隨神門
南隨神門は延文2年(約600年前)北隨神門は天文12年(約400年前)の建造で御祭神の御隨神をおまつりしてあります。共に重要文化財(旧国宝)で御座います。
廻廊
天正7年(約380年前)の再建で延長四百米に及び、自然の地形のまま一直線に建てられて居るので有名であります。

社頭掲示板



吉備津神社

吉備津に伝わる温羅伝説がある。
 崇神天皇のころ、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅が来たと言う。吉備冠者と呼ばれた。
 温羅は新山の鬼の城(きのじょう)を居城として暴虐の限りを尽くし住民を困らせたたので、王権は討伐軍を送った。しかし歯が立たなかったと言う。
 そのため王権は、切り札として比古伊佐勢理比古命(吉備津彦命)を派遣した。
 命の射かけた矢は温羅の射る矢とあたるので、命は二本の矢を同時に射て温羅の左目を射抜いた。 血が新山から足守川に流れたので血吸川とも言われた。温羅が雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけ、次に温羅は鯉に身を変えたので、命は鵜に変わってついに温羅を捕らえた。
 命は温羅の首を切ってさらしたが、首だけになっても温羅は唸り声をやめなかった。命はその肉を犬に食わせたが、それでも唸り声はやまなかった。更に髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、唸り声は13年間やまず、釜を鳴らし続けた。
 そしてある日、命の夢に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば釜は豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう。」と告げたので、命は言われた通りにしたと言う。



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