沼田神社
ぬまたじんじゃ
総社宮 境内社
所在地 社名















   【延喜式神名帳】野俣神社 備中国 賀夜郡鎮座

   【現社名】沼田神社
   【住所】岡山県総社市総社2−18−1
       北緯34度40分35秒、東経133度45分16秒
   【祭神】大年神 (配祀)大物主命 少彦名命
   【例祭】10月 第3土曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】鎮座の年代不詳
       寛政頃より菅原道真を祭る天神となつた如くであった

   【関係氏族】
   【鎮座地】もともとこの地に鎮座という
        その後総社宮がこの地に建立

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「沼田天神」と称していた
   【公式HP】 備中国総社宮
   【社殿】本殿流造
       

   【境内社】

総社境内東南隅に鎮座する。この地を沼田里といい、沼田天神が祀られていた。総社宮が建てられてからは末社扱いとなった。


由緒

総社の由来 総社は初め、仁徳天皇(313年−399年)の皇妃八田皇女の名代として八田部(八部)と呼ばれ、その後大化の改新(645年)によって吉備国の国が備前(和銅六年に美作国が分かれてできる。)備中国の国府が総社市金井戸に置かれ、国司が中心となって祭政一致の政治が行われていた。その後平安末期になると、国司の力が弱まって国内の豪族の勢力が強くなつたので国司が毎年国中の312社(末社を合わせると324社)を巡拝する事が困難となり、そのうえ巡拝の煩わしさを避けるため、国府の近くに社を建てて神々を合祀下ので、この社を総社と呼んだ。戦国時代ごろになってから総社を総社宮とか総社大明神と呼ぶようになり社の総社が地名として呼ばれるようになって八田部村の枝村として総社村となった。以後明治八年に八田部村が消えて、総社村となり続いて村の発展とともに総社町となり昭和28年に施行された町村合併促進法によって昭和29年3月31日近郷の村村と合併して総社市となった。
総社 旧県社
主祭神 大名持命(大国主命)須世理姫命相殿神祇官斎戸八柱神備中国大小神祇304社の神々
例祭10月第3日曜      :境内地 5.764坪
主要建物 本殿 祝詞殿、拝殿、前殿、神餞所 絵馬殿 回廊神輿庫 社務所
摂末社 沼田神社 大神神社 古祀末社12社 氏子数2.000戸
由緒沿革 創建年月日不詳。大化年間の創建で備中国の総社である備中国内大小神祇官社田社304社の神祇を奉斎してある。10月の例祭にはこの304社外に相殿八柱神と末社12社を合わせて324盤の神餞奉献する古例が存続している。天正年間まで神領があった。天正10年兵火で焼失し、慶長13年再健し貞亨4年に改築した。明治5年11月に県社に列格した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




沼田神社

この神社は、国鉄・吉備線束総社駅から東南東へ約200m、備中総杜宮境内の東南隅の、総社市総社2丁目3番5号にある。もと村社。現在、地元では"沼田神社"と称している。
式内社の野俣神社の所在地については、二説がある。『備中誌』などは、現・備中総社宮境内の池の南側に"沼田神社"として祭られている小社が、式内社の野俣神社の後身であるとしており、現在では、この説がおおむね定着している。もともと、この地を沼田里といい、古来沼田天神が祭られていたが、総社宮が建てられてからは、いつのまにか末社のような扱いにされてしまったといういい伝えもあるといわれ、総社宮に伝えられている神像と狛犬は、もとはこの野俣神社のものであったとされている。
祭神は、古くは大年神(饒速日尊の幼名)のみとされていたが、最近では少彦名命(大国主命の出雲の国造りを補佐した人)が共に祭られているという。
社殿は、すぐ東側の稲荷神社と並んで、南面して建てられており、一間社、流れ造り・銅板葺きで、総社宮境内にある諸社の中では二番目に大きなものである。
もう一つの説は、現在の上房郡賀陽町岨谷にあったとするものである。この神社は、明治42年(1909)に、同町宮地の大和神社に合祀されたが、岨谷には現に野俣という地名や野俣川の名称が残っているところから、無視できない説ではある。

社頭掲示板



備中国総社宮

総社宮の創建は不明である。平安時代末期、国司が赴任してきた際、備中国中すべての神社の巡拝を行っていた。しかし、巡拝の手間を省く為、国府の近くに備中国内三百二十四社の神社を勧請し、お祀りした。 室町時代には細川家・毛利家に崇敬を受け、また、氏神的神社の形態を帯びてゆく。江戸時代には地元豪商らの寄進が相次ぎ、繁栄した。明治時代に、県社に列格した。 平成6年には総社(跡)が総社市の重要文化財に指定をされている。
総社宮年表
延長5年(927年) 摂社である野俣神社(現沼田天満宮)の名前が延喜式神明帳に載る。
正長2年(1429年) 總社宮が再建された。
天正9年(1582年) 清水宗治公が社司代(総代長)をつとめる。
元和元年(1615年) 本殿が再建される。
貞享4年(1687年) 本殿・拝殿が再建される。
貞享5年(1688年) 彩色二四孝の絵馬が奉納された。
明和3年(1766年) 武者の図(円山応挙作)が奉納された。
弘化4年(1847年) 力石が奉納される。
明治5年(1872年) 總社宮が県社になる。
昭和10年(1935年) 社務所等新築される。神饌所が再建される。
昭和52年(1977年) 本殿焼失。
昭和54年(1979年) 本殿が再建される。
平成6年(1994年) 総社(跡)が総社市重要文化財に指定される。

社頭掲示板



總社

本神社の創建はその昔国司が国中の神社巡拝の煩わしさを解除するため国府近くに総社を建てた。その時期は大化から平安末期とされている。それ以前は当地には野俣神社(延喜式神名帳に記載の神社で現在の沼田神社)があった。
 鎌倉時代に梶原景時が守護として赴任し長刀を奉納したころより国衙(くにが)の役人達により祭祀がなされた。 室町時代には福山の戦いで社殿を焼失。その後1429年のご造営帳によると管領細川家の力で再建されてより門前市ができ 門前町として発展し、また氏神信仰の高まりとともに總社大明神と称された。
 天正年間に兵火で焼失し再建。中国地方の大名毛利家の信仰篤く 当所清水の領主清水宗治が社司代となり 当地に派遣された毛利元清が当社で戦勝祈願をして長刀を奉納 家臣たちも30数刀の刀剣を奉納。小早川隆景が具足を奉納され、多数の信仰者が増した。
 貞享4年(1687)水谷伊勢守により材木の寄進をうけ本拝殿が再建され、彩色二四孝の絵馬が奉納されてより商家の信仰が増して豪商西戎屋等が京都の一流の画家(円山応挙、大原呑舟等)の描いた絵馬が奉納されるなど社頭も繁栄した。
 明治5年に県社となり終戦までは県の保護を受けたが戦後は社格は廃止され、今は氏子崇敬者により神社が維持されている。各国の総社が 衰退する中で原型がよく残っていることから平成6年総社市の重要文化財に指定された。

岡山県神社庁



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