足高山は、400年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意を表し難を逃れた為、「帆下げの宮」と称して、崇め奉られた。 |
由緒 足高神社(帆下げの宮)参拝のしおり 御祭神 大山津見命 国土御守護の御神で、土上に繁殖する五殻は基より人類草木金銀によらず一切の物を守り給うので、その功徳の広さは、大きな山を積み重ね足る如くで、その御名が付いたといわれます。 配神 石長比売命 寿命御守護の御神で、人の寿命を堅磐常磐に長久するようにと、その御名が付いております。 木之花佐久夜比売命 熱の病を治せられ給う御神で、その名のとおり桜の花の様にやさしく美しく安産の御神でも、あらせられます。 鎮座 現存する神社記録の最古の書は、平安時代・醍醐天皇927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳です。式内社とは、延喜式内社の略称です。延喜式は、国家行政の基本的施工細則であり、その第九・十巻が、神名帳で、これには当時の代表的な神社2800余を全国にわたって例載しています。これらは、いわゆる官社で、いずれも国家の宗祀とあがめられ神社信仰の中心的存在で、この書のなかに足高神社は記載されており、備中18社の一なる最古社であります。御鎮座の年代は、人皇第10代崇神天皇の御代に勧請され、今から約2000年前です。 皇室との関係 寛和元年(985年)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重塔の建立あり。 天暦元年(947年)2月16日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉弊御祈願の儀あり。翌3年不思議な霊験あり神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を御奉納 乾元元年(1243年)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の御下賜。 延慶元年(1308年)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を御下賜。 武将の信仰 建徳元年(1370年)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈願され狛犬を御奉納。 徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊信せられ、代継ぎの際は、代々必ず参拝なさいました。 帆下げの宮 足高山は、四百年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意を表し難を逃れた為、帆下げの宮と称して、あがめ奉りました。古の海路は、現在、国道二号線バイパスとなり、船に代わり、車の交通安全にお参りされる方が、とみに盛んとなっております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
足高神社 御祭神 大山津見命 配神 石長比売命 木花之佐久夜比売命 御鎮座 倉敷市笹沖の足高山(標高100m)に古くから御鎮座ましました事は、延喜式神名帳(醍醐天皇延喜5年今から約1560年前)に窪屋郡小社三の一座に乗せられています。 周知の如くこの神名帳は現存する神名帳の唯一の権威あるものですが、これより以前度々の更正があったことがうかがわれます。 特に諸国の一の宮と云う大社が既にこの神名帳の末記にあることも興味深い事と存じます。 尚備中国の吉備津神杜が式内社の大社に加えられてある事は六国史上吾々の知るところです。 故に式内社が日本の古代文化を知る一つのよすがとなることと言えましょう。式内杜と古代聚落の関連は今後より深く広い研究がなされる必要があると思います。 この足高山は古くは小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の児島、奥津島とも称えられていました。御鎮座の年代は未詳ですが人皇第10代崇神天皇の御代に勧請されたものと言い伝えられて居ります。(紀元前148年今から凡そ2000年前) 崇神天皇の御代に天社、国杜の定めがあったことは、史上で知るところですが、これ等の事に関して当足高山麓の寺谷の一部から縄文式土器の破片が発見された事があります。又小古墳(シスト墳)もこの山中でいくつか見出されます事もこの神の御鎮座と縁深いものがあると言えましょう。 御神階 一、嘉承4年正月 文徳天皇仁寿元年正六位下に叙せられる。 一、永保元年2月 白河天皇御代に従五位下 一、永治元年8月 崇徳天皇御代に従五位上 一、治承4年12月 高倉天皇御代に正五位下 一、元暦元年3月 安徳天皇御代に正五位上 一、建仁元年2月 土御門天皇御代に従四位下 一、弘長元年2月 亀山天皇御代に従四位上 一、建治元年7月 御宇多天皇御代に正四位下 一、永徳元年2月 御円融天皇御代に正四位上延喜の制式内社に列せられ、備中18社の一なる最古社で明治5年社格改正により郷社に列せられ、同12年更に県社に昇格されましたが、戦後官杜制は廃せられ今日に至って居ります。 御社号 天保年間までは葦高の字を用いて居りました。 往古は社殿が葦叢生した中に奉斎してありまして葦高神社と称えましたが、延喜式神名帳には備中国18座窪屋郡3座とある中に、足高神社となって居りますので以後葦を足と書改めました。 古事記上巻八嶋土奴美神より遠津山岬多良斯神までの17世神々の内に葦那陀迦神がいまします。これより足高の神名が出たとの学説もありましたが、尚研究の余地があると思います。葦高八幡大菩薩の称号は神宮寺の消長に依るものでしょう。故に葦高八幡の神号は別に異とするものではありません。特に有名なのは後二条天皇の勅額「葦高八幡大菩薩」が如実に物語っています。葦高八幡の其の後の姿は酒津八幡宮、老松八幡宮となって、章高八幡の分霊として現今継承されて来て居ります。これらは何れも神宮寺の消長と時の為政者の方針に流されて神社 にも消長の波があった次第です。 皇室との御関係 一、寛和元年花山天皇の御代足高神社の神宮寺神遊山神宮寺遍照院に三重塔の建立の事があります。それより先に神宮寺は実在していたもののようでありまして此の時代が神宮寺の中興期と言えましょう。 一、乾元元年後二条天皇の御代に足高神社へ葦高八幡大菩薩の勅額の御下賜がありました。 当時は大覚寺、持明院の両統が競って諸国の有力な社寺に祈願のあった事は史上よく知られて居ります。 一、延慶元年3月花園天皇の御代持明院統であらせられる花園天皇は後二条天皇の御後を承けさせられ足高神社に勅書と獅子頭一対を時の神主であった渡辺市郎右衛門公長11世の孫輝長を召されて御奉納になりました。 之れは後世までも年毎の秋の大祭日に古氏子である白楽市村の獅子面のお迎えにより、うづめの面と「さるだ彦」の面等御下賜の品々の御伴のもとに御神幸が執り行なわれて来て居ります。 海であった頃は船で渡御あらせられ白楽市村の蘭塔樋(覧統樋)でお休みになり、田ノ上村降居殿に御一泊の後翌日次の氏子村を御巡幸になる例は今に伝っておりまして、当日は行列の準傭を整えて白楽市村の獅子面のお迎えがないと出発出きないと昔から云い伝えられて居り昭和の今日迄堅く守られて居りまして特別な神事として興味深いことです。 一、天暦元年2月6日村上天皇は藤原兼成卿を使して足高神社に奉幣御祈願の儀あり、翌二昨天皇神慮不思議な御霊験あらせられ、神殿を御造営遊ばされ御有紋の御幕、勅書等御奉納遊ばされましたこと足高神社の御神徳の表れと存じます。此の平安朝に地方神社として神殿御造営を仰せ出されたお宮は珍らしいことです。 武将・勢力家名士と信仰 一、今川貞世公が建徳元年2月九州探題として赴かれている史実があります。 天授9年8月今川貞世公は少弐冬資を肥後水島に討ち亡ぼして鎮西探題として重きをなしました。後大隈薩摩両国の守護職も兼ねたりした人で文筆にも秀でたことは当時の武将としては珍らしい人物でしょう。この武将が足高神社に高麗狗を奉納されて海路の安全を祈願されました。これは現在も当社宝物の一として保存されています。現に吉傭津彦神社にも今川貞世公寄進のものが残されています。ことに当時の地方神社の神威を知る証となりましょう。 一、次いで旧神主であった渡辺市郎右衛門公長公は従四位上源中将として備中国否瀬戸内地方に名を知られた人で、現在の大高田野が開拓三、四百年の浅い歴史である裡にひとり足高山が干古の史蹟に富んでいたことは旧神主渡辺氏の功績を物語るものと言えましょう。渡辺市郎右衛門輝長は公長11世の孫で持明院、大覚寺両統の勢力下に於て惑星的存在としての勢カ家で当時の神宮寺別当の大憎正の力と相挨って神社と神宮寺との調和協カの程が察せられて興味深いと存じます。 一、徳川幕府時代備前池田候の支藩鴨方池田氏の祈願所として尊信せられ世継の際は代々必ず参拝があった事も足高神社の神威の程が知れる処であります。 帆下宮について 足高山は昔は海中に浮ぶ一孤島であつて、東西航行の舟舶の要路でありましたが潮流の動きが非常に劇しく当時此の瀬戸を通る船は総べて帆を下して山上の神に敬意を表し危難を逃れたと言うことからこの神、即ち足高神社を帆下の宮と称してあがめ奉ったと言われます。 万葉集に乗せられている歌 夢耳継而所見小竹島之 磯越波之敷與布所念。 藤原兼基 笹鳥や夜わたる月の影さえて 磯越す波に秋風ぞふく。 歌林名寄 渡つ海ものどけかりけり君が代は 藤戸の島に波のあらねば 大嘗会 長和五年 主基方傭中国 天の原あけて戸鳥を見渡せば なぎさ静かに波ぞ寄来る 大嘗会 永承元年 主基方備中国 宝物遺物等 神佛分離の事があった際諸物が散々に処置された為か僅かしか残っで居りません。 花園天皇奉納の獅子頭一面、今川貞世公奉納の高麗狗一対、臼女命の面一、猿田彦命の面一、獅子頭(祭礼用)一対、神社由緒碑一基等現存保管してあります 後二条天皇勅書の葦高八幡大菩薩の額は西阿知遍照院の山門に掲げられて居りましたが災火に罹り焼失しました由です。地蔵院に保存されてある「毘倫宮」の額も之れと関違があるのではないかと思われます。 由緒碑は平賀元義(国学者で和歌に長した人として有名)の擦文。 野之口隆正(大国隆正国学者国体尊厳呼吹者)の題字を書いた人。 この書体は全国稀有の神代文字であるとの説あり真否読み方等研究に値する貴重な金石文です。 田ノ上部落に一鎮守の社があります。降居殿(おりゐ殿)と称し足高神社の御旅所として大祭御神幸の際一夜を過される所で、大三島明神とも称せられます。足高神社も旧神主の渡辺市郎右衛門の後は井上家に受継がれ現今は宮司井上亮二(第十代目)が御仕え申し上げて居ります。 祭日 例祭 10月19日 祈年祭 3月15日 新嘗祭 11月28日 社殿 一、本殿 一、幣殿 一、拝殿 一、神饌殿 一、神庫 一、絵馬殿 一、社務所 一、釣殿 一、休憩所 (養気館) 境内末社 一、顧晒神社 一、稲荷神社 一、水分神社 一、石上神社 一、金刀比羅神社 一、国魂神社 一、意富加牟豆美神社 碑文解読一、神主公長は渡辺市郎右衛門のこと 一、発願者神主井上譲麿(井上家第五代の祖、名は真澄、譲麿、弦丸、楠堂、屏石はその号で国学を修め詩歌、書画に長ず) 一、刻字者赤松義(不詳)一、題字筆者野之口隆正(大国隆正のこと国学の研究深く全国各地の神杜を遍歴し国体発揮の幸唱者として有名) 一あしたかのかみのやしろ一仮読これは全国稀有の神代文字であると言われています。神代文字の真否、読み方は識者の間に異説まちまちで大いに研究の余地が残されて居ります一、本文撰者、平賀元義(国学者で有名な歌人です本書体は万葉仮名で万葉調です。) かけまくもかしこき此の吉備の道の中の国窪屋の郡大市のさと大市の海おきつしまやまに、そこついはねにみやはしらふとしり、たかまのはらにひきたかしります、あしたかのかみのやしろは延喜式のかみのみなのふみにのせらえたる、此国なる十あまりのおほやけやしろのそのひとところになもありける。かれかくまくもかしこきとほすめろぎのとほみよみよくにのたちからをあてて、やしろをつくらしめたまひ、神主禰宜みかみのこを、ことよさしさだめてつかへまつらしめたまひ、またとしのはにきさらぎのよかのひのとしこひのまつりには、かやのこほりのとほのみかどのすべやしろに、くにのかみすけまつりごとびとふみびとどもをつどへてこのすべかみをまつらしめて、そのくにのみこともちのつかへまつれるみてぐらを、神主をよびてうけたまはりて、やしろにささげもちたてまつらしめたまひき。そのよしは延喜式またもろもろのみふみどもにしるしてなもある。またやしろにつたわれるふるきふみをみるに、かけまくもかしこきたひらのみやにあめのしたしろしめしし村上のひじりのすめらみこと、このすめかみをいのりたまひて、天暦のはじめのとしきさらぎのとをかまりむゆかのひに、うづのおほみてぐらを藤原の兼成あそみをおほみつかひとしてささげもたしめてたてまつりたまひ、またのとしに、やしろあらたにつくらしめたまひ、神主公長にくらゐひとしなあげたまひき。またかけまくもかしこきたひらのみやにあめのしたしろしめしし花園院のひじりのすめらみこと、延慶のはじめのとしやよひに、獅子がたのおもてふたつを、やしろにおさめまつりまひきとしるしてあり。そのおもては中今につたはりて、秋のまつりにさとびとどもうましみかみのそこだからとおしはぶりつかへまつれり。かくたふときやしろになもあるを、いまの神主譲麿い、そのゆえよしをいしぶみにしるさんとして、大市の郷、阿知の郷浅口の郡阿知の郷、吉傭の道の口の国、児島の郡児島の郷あはせてよさとの氏子どもにあつらへていしをたてしめて、そのことばを、おのれにこへり。かれかくなもしるしつけて、さてうたよみてしるす。其歌 「やすみししわかおほきみの。きこしめす、しまのことごと。かみはしも、さはにませれど。このしまの、このすめかみは。そこたくも、たふときかみの。こきばくも、かしこきかみと。いにしへよ、いひこしかみぞ。たふとみて、つかへまつらへ。かしこみて、つかへまつらへ。あめつちと、ひつきとともに。よろづよまでに。」たひらのみやにあめしたしろしめすすめらみことの、天保のとをまりいつとせながつきのはつかまりなぬかの日。 かくしるすは吉備の道の口の国人平賀の元義こを石にかきうつすは播摩国人赤松の義、また石のかみべにかみのみなかきつくるは、武蔵の国人野之口の隆正。 寺谷の遺蹟 足高山の南麓(神社の下)に寺谷と言う地域があります。ここは往古堂塔寺坊が建ち並んでいた蹟で七ケ寺はあったと言われて居りまして、各寺が交替で足高宮の神護別当に当って居た時もありました。その筆頭の神宮寺は神遊山遍照院神宮寺(聖武天皇神亀二年別当寺)でありまして、後花園天皇永享2年(凡550年前)三重塔再建の記録があります。今の西阿知遍照院の国宝三重塔の根本塔であるζ言伝へられて居りまして信ずべきことです。之等の寺坊は時代の波に押されて、特に寛文年間(凡300年前)領主池田光政の規制に因る神佛離廃の事に遇いその前後に於て或は衰微し或は分散してその跡形を失い唯、蓮台寺の跡といわれる地点に大覚大僧正の碑のみが名残を止めて居るに過ぎない現状です。当時下山した寺院で今日迄続いているのは、西阿知町遍照院・白楽町青蓮院・阿知町地蔵院当初は日吉村で、老松町明王院(下山後廃寺となる)本町本栄寺(蓮台寺の後世ともいわれる)其他は未詳です。 足高神社及び足高山の歴史を詳しくお調べになりたい方は左の本に記載されて居りますから参考までに 一、備中史(窪屋郡巻六) 一、岡山県通史(永山卯三郎著一上巻 一、都窪郡史(管正十郎著) 一、倉敷市史(市教育委員会編第二、八巻) 一、足高神社明細書(神官井上家蔵) 一、吉備温古録 ◇葦高山十景 一、葦高春望 二、倉敷斜陽 三、粒江寒月 四、都羅遠帆 五、陽照晩霞 六、藤戸暁鐘 七、天城深樹 八、八浜漁火 九、常山余雪 十、吉岡群鶴 嘉永甲寅春2月神崎博之謹識 由緒書 |
足高神社 延喜式内社足高神社(帆下げの宮)由緒書 ご祭神 大山津見命(神階は正四位上で元県社) 配神 石長比売命 木之花佐久夜比売命 大山津見命は国土御守護の御神で土上に繁殖する五穀は基より人類草木金銀何によらず一切の物を守り給うのでその功徳の広さは大きな山を積み重ねたる様でその御名がついたと言われます。石長比売命は寿命御守護の御神で人の寿命を堅磐常磐に長久する様にとその御名がついております。木之花佐久夜比売命は熱の病を治せられ給う御神でその名の通り櫻の花の様にやさしく美しく安産の御神でもあられます。 鎮座 現存する神社記録の最古の書は平安時代醍醐天皇927年(延長5年)に編さんされた延喜式神名帳です。式内社とは延喜式内社の略称です。延喜式は国家行政の基本的施工細則でありその第九・第十巻が神名帳でこれには当時の代表的な神社2800余を全国にわたって例載しています。これらはいわゆる官社でいづれも国家の宗祀とあがめられ神社信仰の中心でこの書の中に足高神社は記載されており備中18社の一なる最古社であります。ご鎮座の年代は人皇第十代崇神天皇の御代に勧請され今から約2000年前です。 ご社号 天保年間迄は葦がおい茂った中に奉斎していた意もあり葦高神社と書いておりましたが延喜式神社名帳には足高神社とありますので以後書き改めております。又、一時期葦高八幡大菩薩として奉斎されその姿は”酒津八幡宮””老松八幡宮”にご分霊となって現今継承されております。 皇室との関係 ・寛和元年花山天皇の御代に足高神社神宮寺神遊山神宮寺遍照院に三重塔の建立あり。 ・乾元元年後二条天皇の御代足高八幡大菩薩の勅額のご下賜。 ・延慶元年3月花園天皇の御代勅額と獅子頭一対をご下賜。 ・天暦元年2月16日村上天皇は藤原兼成卿を使わして奉弊御祈願の儀あり。翌3年不思議な霊験あり神殿をご造営になり有紋の御幕勅書を御奉納。 武将の信仰 ・天授9年8月九州探題として赴任の今川貞世公は海路の安全を祈願され高麗狗を奉納。 ・徳川時代備前池田公の支藩鴨方池田氏の祈願所として尊信せられ世継の際は代々必ず参拝がありました。 帆下げの宮 とは 足高山は400年前は海中に浮かぶ一孤島であり小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の児島、奥津島とも呼ばれ東西航行の要路でありましたが潮流の動きが激しく通る船はすべて帆を下げて山上の神に敬意を表し危難を逸れた為足高神社を帆下げの宮と称してあがめ奉りました。 社頭掲示板 |
足高神社 この神社は、国鉄・山陽本線倉敷駅から南へ約3Km、国道二号線の笹沖交差点からは西南約500mのところにある山上の、倉敷市笹沖字足高山1033番地にある。もと県杜。 創祀は明らかでないが、『延喜式神名帳』の記載からみて、嘉祥4年(851)より以前からあったようで、社伝によると、第10代崇神天皇の時代(4世紀前半ころ)に勧請したとしている。古くは葦高明神、葦高八幡、戌亥八幡などと呼ばれ、宗像三女神を祭っていないにもかかわらず、航海の守護神として船乗りの信仰が厚かったといわれる。 この神社がある足高山は、かつては奥津島山あるいは小竹島と呼ばれる傷で、周囲は潮流の激しい場所であったところから、付近を航行する船は安全のために必ず帆を下げて通り、同時に山上の神社に航海の無事を祈ったというので、備中帆下げの宮とも呼ばれていた。 祭神は、主神が大山津見命(瓊々杵尊の后の阿多津姫命の父)で、石長比売命と木之花佐久夜比売命を配祀するとしているが、種々異説がある。 杜殿は、足高山(標高63m)の頂上に南面して建てられており、本殿は、正面一間・側面二間、入り母屋流れ造り・桧皮舞きで、周囲に花山岡岩製の玉垣が巡らされている。境内の末社には、石上神社(祭神・石上布都之魂命)、意富加牟豆美神杜(祭神・伊邪那岐命、 意富加牟豆美命」、稲荷神社(祭神・保食神)、顧聘神社(祭神・須佐之男命)がある。 社頭掲示板 |
足高神社 当社の現存する神社記録の最古の書は、平安時代・醍醐天皇延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳である。この書のなかに当社は記載されており、備中18社の1に数える最古社である。 御鎮座の年代は、第10代崇神天皇の御代に勧請された。 寛和元年(985)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重塔が建立された。 天暦元年(947)2月16日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉幣御祈願の儀があった。翌3年不思議な霊験があって神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を奉納され、乾元元年(1243)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の下賜があった。 延慶元年(1308)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を下賜。また、建徳元年(1370)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈願され狛犬を奉納した。 徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊崇せられ、代継ぎの際は、代々必ず参拝された。 足高山は、4百年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意を表し難を逃れた為、「帆下げの宮」と称して、崇め奉られた。古の海路は、現在、国道2号線(旧バイパス)となり、船に代わり、車の交通安全が盛んとなっている。 岡山県神社庁 |