河上神社
かわかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】河上神社 淡路国 津名郡鎮座

   【現社名】河上神社
   【住所】兵庫県洲本市五色町鮎原南谷562
       北緯34度24分1秒、東経134度48分56秒
   【祭神】高おかみ神 (合祀)菅原大神
       河上大神『式内社調査報告』
       東中將殿、中菅亟相、西吉祥女『淡州神社考』

   【例祭】4月29日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】延喜元年(901)菅原道真当社に参拝祈願
       延長年中(923−31)鎮座と伝
       慶長五年(1600)造営
       元和六年(1620)荒開の田畠の年貢を免除
       万治元年(1658)本殿を午未の方向に替
       元禄11年(1698)造営
       文化13年(1816)造営
       明治3年12月社領五石を阿波藩に没収
       明治6年郷社
       明治26年12月9日河上神社と復称
       明治27年6月4日県社

   【関係氏族】佐伯氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天満宮」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       祝詞舎・舞殿・拝殿・神饌所・社務所・貴賓殿・神門・手水舎

   【境内社】八幡神社
   【別当】隣接している延長寺

明治21年5月祭神未詳であったものを河上大神と定め、明治26年河上天満宮を、河上神社と復称した。
明治の初に斗ノ内の河上神社を勧請したという説もある。
称徳天皇天平神護元年(765)に佐伯宿禰が淡路守に任ぜられ淡路に移居、後鮎原の里に移り、明治初年迄連綿と神職を司るとある。
道真が延喜元年(901年)、左遷の際、当地に立ち寄り参拝と伝。


由緒

本社の儀は、創立年代詳かならざれども延喜式神名帳に「淡路国津名郡河上神社」とある、即ち是にして、往昔祈年国幣に預り給ひし古社たり。
相殿天満宮の儀は、菅原道真公曾て讃岐守御在任中御上洛の途、都志に御船を留められ此の郷名「都に志す」とは我が意を得たり。聞く此の名神あり、神威赫々須らく賽して加護冥助を祈らんと、乃ち流れを泝りて当所に御参向あらさられたりき。此の由縁をもちて、公太宰府に薨ぜられし後、里民敬慕止み難く、此所に管廟を営み奉斎せりとなん。爾後淡路に於ける唯一の天満宮として全島民の尊信聚まり、代々の守護職殊に舊藩主阿波守蜂須賀家の御崇敬極めて厚く、徳島城鎮護の祈願所として、代々社殿の再興修築怠らず、年々奉行を派遣して大祭を執行せられたりき。明治4年郷社と定められたりしが、明治27年6月4日縣社に昇格せられ、益四方の崇信深く、其御神徳に賽するもの日に年に多きを加ふ。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




河上神社

河上神社天満宮
御祭神と御神徳
本社 河上神社
河上大神
古昔より天神と称し最も高き貴き天津神といわれまた、高神とも伝えられ 地方に恵みをもたらす万物育成の神・水を司る(甘雨を降らし霖雨を止める)神として崇められている。
相殿 天満宮
菅原大神
配祀 中将殿(菅公の第一の御子高槻朝臣)
   吉祥女(菅公の御北方島田氏宣来子)
贈正一位太政大臣菅原道真朝臣をお祀りしてあり天満天神と称され知徳を進める学問の神として広く崇敬されている。
由緒
本社河上神社は創立年代不詳であるが延喜式神名帳に『淡路国津名郡河上神社』とあり古くは国幣にあずかり崇拝されてきた神社である。
相殿の天満宮は延喜元年(901)菅原道真公が筑紫に下向される途上播磨灘で強い北風にあい船を都志浦に寄せられ「川上に貴き霊神あり」と聞かれて当河上神社にお参りし祈念されたという。
その由縁をもって菅公が太宰府に於いて薨ぜられた後里人たち敬慕して此所に管廟を営みお祀り申し上げ以来淡路唯一の天満宮として崇められている。

社頭石碑



河上神社

県指定文化財 河神神社
指定年月日平成3年3月20日
所有者・管理者 河上神社
種名 イブキ
樹高16.5m、胸高間3.34m、根廻り3.55m、枝張り東西7.5m、南北9.5m、推定樹齢約500年。イブキは本州、四国、九州の海岸地方に自生し、広く植栽されている。本樹は神社の境内地にあり、根の廻りを鉄柵で囲んでいる。主幹は本殿側に斜向し、1本の枝は垂下し、他の1本は表皮がはがれ白骨化しているが、樹幹及び葉は健全である。河上神社のイブキは独立樹であるが周辺には良好な林が形成されている。又、境内地正面外側には、小川があり安定した水量が流れている。
平成3年11月
兵庫県教育委員会

社頭掲示板



河上神社

延喜式神名帳に「淡路国津名郡河上神社」とある。
 往古は祈念国幣に預り給ひ皇室の御尊崇をかがふりし神社たること明らかである。
 社伝によりと、「菅公大宰府に謫せられ給う時、北風に逢い都志浦に船を泊めて都に志すという。郷の名我意を得たり。今遠き筑紫に左遷さるとも、身罪なきを知ろしめし給いて、再び朝廷に帰ることを得まほしとの給う。夫より都志河上に沂り、鮎原の里に遊覧し給う。」
 淡路常盤草に天神は地祇に対する也。世俗に天神といへば多くは菅神のこととのみ覚えて、当社をも天満天神と称すること久し。式内の河上神社必ずこの霊地をいう。

社頭掲示板



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