由良湊神社
ゆらみなとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】由良湊神社 淡路国 津名郡鎮座

   【現社名】由良湊神社
   【住所】兵庫県洲本市由良3-5-2
       北緯34度17分32秒、東経134度56分36秒
   【祭神】速秋津日子神 速秋津日売神 品陀和気尊
       『神名帳考証』海童神
       『淡路草』王子権現
       『淡州神社考』鳴山明神

   【例祭】2月10-11日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代は不詳
       承暦4年(1080)過穢のため清祓を行う
       慶長18年(1613)領主池田輝政の三男忠雄王子権現社を八幡宮の摂社とする
       万治元年(16587)蜂須賀光隆八幡宮を由良湊神社境内に移
       明治3年由良湊神社と八幡宮とを合祀由良湊神社と称
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「王子権現社」と称していた
   【公式HP】 由良湊神社
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・拝殿・神饌室・授與所・随神門・社務所

   【境内社】恵美須神社
   【神宮寺】神宮寺は隣接の心蓮寺

康永4年(1345)由良荘が新熊野社領となつているので、この頃より由良湊神社を漸次王子権現社と呼称し、終には権現社名のみが慣用されるに至ったのではないかと思われる。
中途絶えたと云われる八幡宮の末社天神社を式内由良湊神社とする説があり、又、天神社即ち王子権現社即ち由良湊神社とする異説がある。


由良湊神社

古代 当神社の創立年代は不詳ですが、この地に居住していた淡路海人によって、由良水門の鎮護として祀られたものと思われます。
「淡路」の地名は[「阿波に行く路」に由来すると云われますが、鎮座地の由良は淡路上陸の要所として古より栄え、延喜の制では由良駅が置かれ馬五頭が配されていたほどでした。
中世 中世の状況については、『朝野群載』に僅かな記述があるのみで詳細は不明ですが、八幡神の信仰が全国的に盛んになるにつれ、いつしか八幡宮が祀られたようです。
近世 成山城城主の池田忠長が、現由良小学校地に在った八幡宮を再興して氏神と定め、由良湊神社を境外摂社としました。次いで、阿波・淡路両国の領主蜂須賀氏も成山城を居城としましたが、寛永年間に「由良引け」を断行、国府が洲本へ移りました。この時、藩邸を築く為に八幡宮を湊神社の境内に移して社殿を造営しましたが、本社・摂社の関係は依然として旧の如くでした。
明治3年に両社を合併して、延喜式の社名「由良湊神社」と称し、現在に至っています。

公式HP



由良湊神社

ねりこ祭 2月15日
昔、由良では結婚式の習慣は無く子供が生まれてからねりこ祭りで盛大にお披露目をしました。
太鼓の音とともにだんじりも繰り出す由良の町あげての祭りです。
ねりこ祭りは数え年3歳になった子供が、両親、親族に伴われて御旅所(事代主神社の若宮)まで御神輿と共にねり歩き、神前に御幣を奉って、今まで無事に育った感謝と今後の健やかな成長を祈ります。



由良湊神社

創立年代不詳。
 延喜式神名帳にその名を連ねる古社で、この地に居住していた淡路海人によって、由良水門の鎮護として祀られた。
 中世の状況については、『朝野群載』に僅かな記述があるのみで詳細は不明であるが、八幡神の信仰が全国的に盛んになるにつれ、いつしか八幡宮が当地でも祀られたようである。
 近世、成山城城主の池田忠長が、現由良小学校地に在った八幡宮を再興して氏神と定め、由良湊神社を境外摂社とした。
 次いで、阿波・淡路両国の領主蜂須賀氏も成山城を居城としたが、寛永年間(1624〜1643)に「由良引け」を断行、国府が洲本へ移る。
 この時、藩邸を築く為に八幡宮を湊神社の境内に移して社殿を造営したが、本社・摂社の関係は依然として旧の如くであった。
明治3年(1870)に両社を合併して、延喜式の社名「由良湊神社」と称し、現在に至る。

兵庫県神社庁



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