賀茂神社
かもじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】賀茂神社 淡路国 津名郡鎮座

   【現社名】賀茂神社
   【住所】兵庫県淡路市生穂2505
       北緯34度27分22秒  東経134度55分1秒
   【祭神】賀茂別雷神 春日大神 白鬚大神 貴船大神
   【例祭】4月19日前の日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       保安元年(1120)「中右記」に記載
       。安政4年(1857)賀茂神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「四社明神」と称していた
   【公式HP】 賀茂神社
   【社殿】本殿
       拝殿・絵馬殿・社務所・倉庫・手水舎

   【境内社】天降山神社・金刀比羅神社
   【境内図】 境内図

欽明天皇の時代(西暦538年)六十余国に賀茂神田(庄園)を置いたとあり、淡路国生穂佐野庄がその一所で、そのときから氏神として祀られてきた。


由緒

賀茂神社の創立については文献がなくよくわからない。平安時代、中右記という書に、保安元年(西暦1120年)朝廷に上訴の記録があり、これによって、本社は京都賀茂神社の支社で、生穂佐野庄は同社の荘園であったことがわかる。いつ頃からか、賀茂、白鬚、春日、貴船の四紙を祀ったので四社明神と称し、神威、神徳きわめて高く崇敬されてきた。
乱世時代、数度社殿を焼かれその都度再建された。安政4年(西暦1857年)国主蜂須賀斉昌公国内巡廻の節当社の由蹟を御取調べになって「四社明神」と唱えていたのを復古して今後は「賀茂神社」と改称するよう申された。因に蜂須賀茂詔候から「賀茂神社」の染筆を頂き社頭の額として現在掲げている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




賀茂神社

賀茂神社由緒略記
賀茂神社の創立は正確な記録が残されていないが、京都「上賀茂神社々記に欽明天皇の時代(西暦538年)六十余国に賀茂神田(庄園)を置いたとあり、淡路国生穂佐野庄がその一所で、そのときから氏神として祀られてきた。約1500年前と推断される。
のち賀茂神(雷神)と併せ春日神(智神)貴船神(水神)白髪神(土神)が祀られたことから四社明神ともいわれ「しらひげさん」とよばれて地元はもとより淡路島内外から親しまれ厚く信仰されてきた。
安政四年(西暦1858年)藩主蜂須賀斎昌公所領巡回のおり当社由緒を調べ「今までは四社明神と称してきたが以後賀茂神社と唱へ国内繁栄の大社とする」と沙汰された。のちに蜂須賀茂詔(もちあき)侯から「賀茂神社」の染筆掛字を下賜された。
明治以降昭和20年まで津名郡郷社であった。今は正式には宗教法人賀茂神社で生穂佐野地区の氏神である。現在の社殿は明治22年津名郡内の氏子の醵金により造営された。

社頭掲示板



賀茂神社

創立からの歴史
創立時期は記録が残っていないので明らかでありませんが、京都の上賀茂神社社記に、29代欽明天皇の御代の西暦538年に賀茂神田(荘園)を60余国に置いたとの記録があります。淡路国佐野生穂庄がその一所で、従って約1500年前から生穂・佐野地域の氏神として祀られてきたと推断されます。
『中右記』という書に、保安元年(1120年)、国司によって当社が被った被害に関する上訴が上賀茂神社から朝廷に対して為されたと記されています。その内容より、当社は上賀茂神社の支社で、生穂佐野地域は当社の領地であったことが分かります。
のちに、賀茂神(雷神)と併せ、春日神(智神)、貴船神(水神)、白鬚神(土神)が祀られたことから「四社明神」と称していた時代もあり、「しらひげさん」と呼ばれ、地元はもとより島内外から広く親しまれ、厚く信仰されてきました。
安政4年(西暦1858年)の阿波藩主蜂須賀斎昌公所領巡回の折り、当社由縁を調べられ、「これまでは四社明神と称してきたが、以後賀茂神社と唱え国内繁栄の大社とする」と沙汰されました。のちに蜂須賀茂韶侯から「賀茂神社」の染筆掛字を賜っています。
明治から昭和20年までは津名郡郷社でした。現在は宗教法人賀茂神社であり、生穂佐野地域の氏神です。
社殿焼失と建て替えの歴史
当社は乱世の時代に三度社殿を焼失しています。江戸時代に入って阿波藩主蜂須賀至鎮公によって再建されますが、寛永21年(1644年)に再び焼失します。その後、中ノ内、野田尾、大谷、長澤、佐野の村長たちが12年間にわたって阿波藩に合力を勧進し続け、藩公から良材提供の援助を得て再建されます。その社殿の絵は絵馬殿に掲げられています。
現在の社殿は明治22年(1889年)に建替えられたものです。
建替えに際しては、生穂佐野地域の老若男女が七日七夜氏中を踊りまわりました。その歓喜溢れる踊りの様子が、絵馬殿の札場若中奉納の絵に描かれています。
生穂・佐野地域の創学の宮として
明治初年まで、境内の忠魂碑のあたりには栄玄寺という神社の別当寺があり、明治の新学制の元、明治10年には栄玄寺に生穂小学校が置かれました。そして、明治15年、栄玄寺が廃された後には生穂小学校の新校舎が建設され、大正15年まで運営されました。
更に、明治34年には、生穂佐野村組合立生穂高等小学校が神社の建物を利用して創設され、社務所や絵馬殿が教室として使用されました。明治40年まで独立校として運営されています。このようにして、当社は生穂佐野地域の創学の宮として多くの人材を育ててきました。
また、生穂小学校の初代校長になったのが、後に我が国を代表する国学者の一人となる当社神官の大川真澄でした。大川は淡路島出身の国学者鈴木重胤の門弟で、江戸末期から明治にかけて国学の普及・教育のための「国学塾養徳学館」も社務所で開いています。
当社の神紋「双葉葵」について
当社の神紋はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したものです。葵紋は賀茂氏の象徴ですが、葵の紋というとまず思い出されるのは徳川家の三つ葉葵でしょう。「控えい!この紋所が眼に入らぬか」というテレビの時代劇でもお馴染みですね。共に葵の葉を紋にしている賀茂神社と徳川家ですが、それは偶然ではなく両者の間には深いつながりがあったのです。
葵紋は賀茂信仰・賀茂氏族と深くかかわる人々に用いられました。徳川家の出身地の三河の武士団は昔から賀茂神社とつながりが深く、三河三豪族と呼ばれた松平・本多・伊奈氏らは賀茂神社の氏子で、戦国時代前期頃から家紋に葵紋を用いていました。本多氏の『本多家譜』には「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」とあり、本多氏の祖先は賀茂神社の神官でした。
ところが、家康が徳川幕府を開くと、葵紋は一門親藩だけに許され、他は禁止されるようになります。家康が本多忠勝に将軍家と同じ紋は遠慮するようにと命じたところ、「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕する賀茂族。それゆえ賀茂の神紋である葵紋を用いるのは当然のこと」と拒否したという逸話もあります。
そのような理由で、葵紋が許されるのは賀茂神社とその神官、徳川家とその血統、本多家などごく一部に限られるようになり、葵紋は絶対的な権威を持つようになります。
余談ですが、フタバアオイの葉の数は二枚です。従って、三枚の葉を持つ徳川家の三つ葉葵は架空のものなのです。

公式HP



賀茂神社

創立年不詳。京都賀茂別雷神社より分霊を勧請。
 寿永(1182〜1183)の頃より同社領荘園であった。
 寿永3年(1184)、後鳥羽天皇の院廳の下文を以て源頼朝に神領を同社に安堵すべきを命じられ、応永5年(1398)、足利義満は御教書を神主に下し、安堵する等、賀茂別雷神社と特種の間柄となる地に遷座。
 近年はしらひげさん、四社明神と呼ばれて、淡路島内外より崇拝を受けている。

兵庫県神社庁



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