石屋神社
いわやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石屋神社 淡路国 津名郡鎮座

   【現社名】石屋神社
   【住所】兵庫県淡路市岩屋799
       北緯34度35分12秒、東経135度1分19秒
   【祭神】国常立尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊
   【例祭】5月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇の御代三対山に鎮座
       垂仁天皇の御代石屋明神と改称
       承暦4年(1080)御不例の御トに石屋の神の崇りがあり中臣祓
       長寛元年(1163)「天地大明神」と勅定、神階昇叙、神供田寄進
       源平合戦の砌岩屋浦兵火で焼失
       建治元年(1275)大内義興三対山上に築城、石屋神社を現地に遷
       寛政8年(1796)造営
       文化14年(1817)蜂須賀藩主直参
       明治6年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】崇神天皇の御代三対山に鎮座
        建治元年(1275)大内義興三対山上に築城、石屋神社を現地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「岩屋明神」「絵島明神」と称していた
   【社殿】本殿春日造檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所・神輿庫

   【境内社】

もとの鎮座地は、現在地の300m北にある三対山(城山)
三対山の北側には伊弉諾尊がかくれ給うた幽宮であると伝承される洞窟がある。
成務天皇の勅命で、石屋神社の御分霊を明石・岩屋神社に移したとされている。


由緒

立年月不詳なれども伝へいう崇神天皇(第10代天皇)の御代三対山に鎮座せられ絵島明神といい垂仁天皇(第11代天皇)の御代石屋明神という神功皇后(皇紀860年頃)三韓征伐の際対岸明石郡垂水の浜より当浦に着船せられ三対山の頂上に於て戦勝を祈願せられ凱旋の時又参拝ありて報賽せらるるという延喜式の制小社に列し白河天皇(第72代天皇)承暦4年禍穢によりて使を派し清祓を科すべき事を卜奏せり二条天皇(第78代天皇)長寛元年「天地大明神」と勅定せられ神階を昇叙し神供田を寄進せらる源平争覇の頃岩屋浦兵火の巷と化せしかば当神社多く什宝古記録の烏有に帰せしめたり土御門天皇(第83代天皇)の御代大内義興将軍義植を奉じて京都に入らんとし当地に軍を進め三対山に岩屋城を築きし時当神社を海浜なる今の地に遷座せり池田氏淡路を領せし際社殿を再興し寛政8年領主蜂須賀候親しく参拝し文化14年又直参を見たり明治6年2月郷社に列せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石屋神社

岩楠神社の祭神はイザナギ、イザナミ、そしてこの2神より生まれた蛭子の3柱です。蛭子は一般には「えべっさん」の名で親しまれ商売繁盛の神であり、「西宮のエビスさん」の本家は岩屋であるという説があります。
この洞窟は、昔52mの奥行きがあったですが、現在では高さ1m60cm幅1m10cm奥行き3mとなり前面の左右に上古の祭壇の跡があります。
昔の風習から、現在でも古びた祭器や神体を納受する場所になっています。

社頭掲示板



石屋神社

創立年代不詳。崇神天皇の御代、三対山に鎮座せられ絵島明神といい、垂仁天皇の御代石屋明神と云う。
 神功皇后三韓征伐の際対岸明石郡垂水の浜より当浦に着船せられ三対山の頂上において戦勝を祈願せられ凱旋の時また参拝ありて報賽せられしという。
 延喜式の小社に列し、白河天皇承暦4年罪過や穢による当社の祟りがあることが占いによって分かったので祓いをさす為、使を当社に遣わすよう天皇に申し上げた。
 源平争覇の時岩屋浦戦火の巷と化したるにより、当社も多くの什宝古記録等は鳥有に帰してしまった。土御門天皇の御代大内義興が将軍義植を奉じて京に入らむとして当地に軍を進め、三対山に岩屋城を築きし時当社を海浜なる今の地に遷し奉ったという。
 池田氏淡路を領しておった時社殿を再興し、寛政8年(1796)、領主蜂須賀公親しく参拝し、文化14年(1817)にも直参せられた。
 明治6年(1873)、郷社に列せられた。

兵庫県神社庁



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