伊弉諾神宮
いざなぎじんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】淡路伊佐奈伎神社(名神大) 淡路国 津名郡鎮座

   【現社名】伊弉諾神宮
   【住所】兵庫県淡路市多賀740
       北緯34度27分37秒、東経134度51分9秒
   【祭神】伊弉諾大神 (配祀)伊弉冉大神
   【例祭】4月20日 例祭
   【社格】旧官幣大社 淡路一宮
   【由緒】大同元年(806)神封十三戸
       貞観元年(859)一品の神階
       永万元年(1165)炭五十籠木五十束を神祇官に致
       元久2年(1205)4月東神代八木両郷荒野十町を寄進
       弘安3年(1280)田村麻呂十二世田村仲実幽宮の祭職を司る
       元禄年間妙京寺との間に「唯一騒動」
       明治4年国幣中社
       明治18年官幣大社、
       昭和7年伊弉册命を合祀
       昭和29年神宮と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は古墳を祀る
   【祭祀】江戸時代は「一宮」と称していた
   【公式HP】 伊弉諾神宮
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・中門・拝殿・神饌殿・神輿庫・手水舎・儀式殿・齋殿・社務所
       器具庫・御供井戸屋形・納屋・檀尻納屋

   【境内社】左右神社・根神社・篭神社・鹿島神社・住吉神社・岩楠神社・淡路祖霊社
   【境内図】 境内図

古事記、日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家の統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「霊宮」を構えて余生を過ごされたと記されてる。その御住居跡に御陵(みささぎ)が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、当神宮の起源。
明治15年に本殿の位置をを後退する。それまでは自然石が積重なり一帯は芝地として神陵の姿をとどめていた。その神陵の上に現在の本殿を遷した。


由緒

我が国最古の歴史書たる、古事記・日本書紀に御祭神二柱の大神は、高天原の神々の理想実現のため天沼矛をもって日本の国土開拓に着手された。その最初が淡路の島で、先づ八尋殿と言う御殿を建て、其処で正しい夫婦の道をお定めになり、人々に教育を施し、産業を興して此の島をお治めになった。
更に四国・九州・本州を始め周辺の島を次々と開拓されたのである。此の神業が国生みであり、大神を国生みの神と申し上げるのもその故である。 大神は多くの神々もお生みになったが、その中で一番貴い御子神が天照大御神である。国生の大業を了えられた大神は、此の御子神に後の国治めの大任をお委せになり、独り国生みの初めの淡路へお帰りになって、此の多賀の地で余生を過されやがて御住居の跡が御陵となり、いつしか神社として祀られる様になったのが当神宮で、古事記には淡路の多賀になも坐す、日本書紀には幽宮を淡路の洲に構り、と御鎮座の起源を明かにしている、即ち日本最古のお社である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊弉諾神宮

幽宮
大鳥居から正参道を進むと、二の鳥居(鋼製)の先に神池が広がり、反り石の神橋が架かって檜皮葺きの重厚な神門が参詣者を迎へる。
全国には、神宮号を宣下された格式高いお宮が、23社あるが、いづれも御皇室にお縁りの深い神社並びに天皇をお祀りするお宮で、當神宮は御皇室の御祖神たる天照御大神の御両親にあたり、日本民族の大祖先神である。
日本書紀に「是以構幽宮於淡路之洲」とある。
御祭神
伊弊諾大神
伊弊再大神
御社格
延喜式神名帳名神大社
淡路國一之宮
明治18年官幣大社
昭和29年神宮号宣下
摂社 浜神社 一宮町郡家宮の森鎮座
末社 櫛笥神社 一宮町多賀老の内鎮座
境内末社
左右神社・根神社・竈紳社・鹿島神社
住吉神社・岩楠神社・淡路祖霊社
御由緒
古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお住みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮」を構へて余生を過ごされたと記される。その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最吉の神社が創始壌のが、当神宮の起源である。地元では「いっくさん」と別称され日少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められてゐる。本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であった。御陵を中心として神域の周囲に濠が巡らされたと伝へ、正面の神池や背後の湿地はこの周濠の遺構といふ。
建物や工作物は、明治9年から同21年に官費で造営されたものが殆どだが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進による。
境内地は、約15000坪。沖積地にあって天然記念物の大楠など照糞樹林に覆はれ、四季を彩る草木が繁茂する日本最古のお社である。江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領したとあり、広大な神域であった。
神輿庫
文化5年(1808)阿波藩主が造営寄進した。茅葺寄棟造に白壁の瀟洒なたたずまいみせる秀作で例祭当日の神幸式に召される六角鳳簾型の豪華な御神輿を格納する。
平成6年夏、南西の旧地より移築修理に着手し、同8年春竣功した。
放生の神池
聖域の周濠の遺構と伝へる神池は、生命を司る御神徳を称へ奉る御祭神の御事蹟から病気平癒や不老長壽のため鯉や亀を放って祈願する放生信仰の習慣がある。
黄泉國に逝かれた伊弉冉様を慕はれた伊弊諾様が禁戒を悟られてこの世に帰られ、千人の死に対して千五百の産屋で命を授けられた故事に因んで、命乞ひには「鯉」、快癒の報賛には長寿を願って甲羅に名を記し
た「亀」を放つ信仰が生まれた。
表神門
一間一戸四脚門の豪壮な構へで、桧皮葺に棟瓦を配し、神威を誇示するやうな景観をみせる。明治16年旧来は郷土色ある随神門であったものを、現状に改めた。
本殿と拝殿
本殿は、御陵丘を覆ふやうに基壇を二重に構へ、檜皮葺、三間社流造向拝付で、棟に千木・鰹木を置き、前方の幣殿と連結して一屋根に造る。明治十二年の建立で、当初は約十間前方に建てられたが、同十五年に後背の御陵地を造成して移築された。
次いで前方に檜皮葺(現銅葺)入母屋造、桁行五間・梁間二聞の舞殿を兼ねた拝殿を建立し、次いで表神門が建立された。
東西神門
一間一戸四脚門の秀作で東西対象に二棟が配置される。元禄九年(1696)藩主蜂須賀家の寄進したもので、社殿中では最も古く価値の高い社殿建造物と評価されてゐる。
手水鉢
正面に向かって左に手水舎があり、「漱盟」と大きく刻字された花簡岩自然石の手水鉢がある。
豊臣秀吉公が大阪城築域にあたり瀬戸内地方から大量の石材を調達した。この石材を運搬中に誤って綱が外れ、郡家浦沖合に没したものを、氏子の漁師が見つけて引き揚げ、手水鉢に刻んで奉納したもの。
「嘉永3年(1850)2月-…」と刻名があり、繁栄した往時の淡路西浦(播磨灘側)を偲ばせる。
「香木」博来記念碑
日本書記は、推古天皇3年夏4月淡路島に沈水(香木)が初めて漂着し、朝廷に献ったことを傳へる。その1400年にあたる平成7年に香りの文化発展を願って記念碑が建立された。因みに一宮町は日本一の線香生産地である。
「祓」と桃の実
伊弊諾大神が黄泉国に立ち入られたとき、桃の実の霊力によって醜鬼の危難から逃れられた。
當神宮の最重儀である粥占神事(1月十五日)で、桃の小枝の薪で邪気を祓ひ粥を炊き上げるのも、この故事に由来する。
力石
淡路島は、古来から相撲の盛んなところで
有名な関取を輩出した地域であった。
祭礼では奉納相撲や力だめしが行われ、石を持ち上げたり、運ぶ距離を競ったりする
のに使はれたのが力石で、「一宮力石」と持ち上げた人の住所・氏名・年月・重量などを刻字して奉納した。
祓殿
伊弊諾大神は、黄泉国の「穢」を祓ふため、阿波岐原といふところで「禊」を行はれ、清カしい心身となられて、大神業を成し遂げられた。
當神宮の祭儀では、先ずこ一の祓殿でお祓ひの儀式を行ふ。地元近郷の参拝者は、手水のあと、ここに参ってがら本宮に参拝する慣習がある。
神饌殿
神前に献る神遷(お供物)を調理ずる建物で、祓殿と一棟に構える。
この一隅に特殊神事である粥占神事の竈殿が設けてあり、1月14日夕刻から始まる粥炊神事では、15日の丑刻(2時)寅刻(4時)卯刻(6時)の三度、神粥の炊き土げを行ふ。
日本書記に、「にはくなふり」の可憐な仕草により夫婦の道を開かれたとある。この小鳥は、「鶺鴒で美婦円満の御神鳥として崇められる。
當神宮の官幣大社昇格50年を記念して作られた「伊弊諾音頭」(川路柳虹作詞・中山晋平作曲)には"小さい鶺鴒教えた道は、神代変らぬ人の道 と唄はれてゐる。
淡路裡霊祉
本宮東側の淡路出身の先覚者や賢人功労者の御霊、約8000柱を祀る。
大東亜戦争終結後、尊い命を国のために捧げられた靖國の英霊の御分霊を神戸護國神社から勧請した。
隣接して遺品館が併設され、御霊名を金属板に刻んで壁面に掲げ、祭神の遺品や軍役資料を展示してゐる。(希望拝観可)
夫婦大楠(兵庫県指定天然記念物)
樹齢約九百年、樹高三十米余で、淡路の地誌に「違理噌欄」と記され、信仰の対象として広く知られてゐる。
元は二株の木が、成長するに連れて合体し、一株に育ったといふ奇樹で、伊弊諾・伊弊再二神の御神霊の宿り給ふ御神木として夫婦円満、安産子授、縁結びなどの信柳で篤く崇められてゐる。

由緒書



伊弉諾神宮

伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記し、神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の 天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を溝へて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。これを創祀の起源とする最古の神社が伊弉諾神宮です。明治以前は、神陵の前方に本殿がありましたが、明治初年の国費により造営で、神陵の墳丘を整地して本殿を真上に移築し、現在の景観に整へました。
平安時代の延喜式の制では、名神大社。三代実録には神格一品。明治の制度では官幣大社に列格し、古くから淡路国の一宮と崇められ、地元では日本第一番の宮であることから「いっくさん」とも呼ばれます。また日之少宮、津名明神、多賀明神、淡路島神、一宮皇大神とも別称されてゐます。
昭和29年に、昭和天皇が「神宮号」を宣下されましたので、伊弉諾神宮と改称し、兵庫県下唯一の「神宮」に昇格しました。

公式HP



伊弉諾神宮

御祭神 伊弉諾大神 伊弉冉大神
淡路一宮 官幣大社
古事記に故其伊邪那岐大神は淡路の多賀になも座すなり、日本書紀に伊弉諾命尊 是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲につくり静かに長く隠りましきとあり。淡路の島は二柱の大神が一番始めに御開拓になった地であり、この多賀は伊弉諾大神が国土経営の神業をおえられた後お鎮座遊ばされた御終焉の地で大神の御陵がそのまま神社として祀られるようになった我が国最古の御社である。

社頭掲示板



伊弉諾神宮

 『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地に幽宮(かくりのみや)を構えそこに鎮まったと記される。その幽宮が当社の神社の起源である。
 伊弉諾尊の幽宮遺跡と伝わる場所は、当社の他に滋賀の多賀大社がある。ただしこの古事記の「淡海の多賀に座すなり」との記述によるものであるが、これは誤記の可能性ありとされている学術的事実を記す必要がある。 なぜなら、古事記では「近江」は「近淡海」と記されるのが常であり、ここに見る「淡海」は「淡道(淡路島)」の誤写ではないかと考えられるからである。 なお、『日本書紀』では一貫して「淡道」と記され、「近江」を思わせる名は見当たらない。
 延喜式神名帳には「淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社」と記載され、名神大社に列している。平安時代末期より淡路国一宮とされるようになり、一宮大神とも呼ばれるようになった。
 明治4年(1871)に国幣中社に列格し、明治18年(1885)官幣大社に昇格。昭和7年(1932)に妃神の伊弉冉尊を合祀。昭和29年(1954)、それまでの伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称した。

兵庫県神社庁



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