賀志波比売神社
かしはひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】賀志波比売神社 阿波国 那賀郡鎮座

   【現社名】賀志波比売神社
   【住所】徳島県阿南市見能林町柏野22
       北緯33度54分7秒  東経134度40分21秒
   【祭神】賀志波比売命
   【例祭】3月社日 春祭り
   【社格】
   【由緒】神亀元年(724)の創祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳
        昭和27年見能方保育所建設で社殿はその北西隅に移転鎮座
        昭和63年保育所の新築移転で現在地に移転改築

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

徳島県阿南市見能林町東浦にある八幡神社の飛び地境内社となっている。
この地が『天照大御神の生誕の地』と云われている。
当社は津峯神社の本宮となる。昭和27年(1952年)、見能方八幡神社に合祀された。


賀志波比売神社

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原
延喜式内社 賀志波比売神社
日本最古の歴史書「古事記」に
『夫婦神の伊邪那岐命と伊邪那美命は、高天原から降りて来られ国生みをはじめられた。その途中で亡くなった伊邪那美命に会うため、伊邪那岐命は黄泉の国に行き、「見てはいけない」と言われた伊邪那美命の屍体を見たため追われた。黄泉の国を逃げ出した後、伊邪那岐命は「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎ祓いをすると、天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。この時、伊邪那岐大神は「天照大御神と月読命は高天原を治めよ。須佐之男命は海原を治めよ。」と命じた。』と記されています。
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と祓詞でも奏上される「竺紫」とは、「尽きる」で、「日向」は、ひむか・ひむかし・ひんがし・ひがしと変化した言葉です。つまり「竺紫の日向」とは「東に尽きた地」という意味です。
神武天皇が奈良へ行く前の最東端の地は、橘湾に面した阿南市見能林町青木・柏野地域にあたります。
ここが『天照大御神の生誕の地』です。
賀志波比売大神の神名は「古事記」等に書かれていませんが、伊邪那岐命がこの地で禊ぎ祓いをして天照大御神が生まれたと「古事記」に記されていることから、天照大御神の幼名は賀志波比売大神であったと考えられます。光輝く天照大御神と月読命は、高天原(神山町)へ巫女として送られました。
賀志波比売神社は、平安時代(927年)に完成した延喜式神名帳の中に記録された3132座の由緒ある延喜式内社の一社です。現在、賀志波比売大神は津峰山頂にある津峯神社に奉斎されています。
御神紋は八角形(三方)です。神様に御供えする際に使われる「三方」は、古くは柏の葉(ひらで)が用いられ、現在も皇室では使用されております。
また、「柏」は「柏手を打つ」というように神事と深い関わりをもつているのです。
阿波古事記研究会

社頭掲示板



賀志波比売神社

賀志波比売神社は見能方八幡神社飛地境内の見能林町柏野22番地にあり延喜式内社で津峯神社(祭神賀志波比売命)の本宮である。
 昭和27年社地の大部分に見能方保育所が建設され、そのため社殿は北西隅に移転鎮座していたものである。
 昭和63年保育所の新築移転に伴い、阿南市から整地返還をうけ、当社も念願の現在地に移転改築を行ったものである。

社頭掲示板



阿波国INDEXへ        TOPページへ



順悠社