日和佐町史は「わさ」と読み、和耶神社は日和佐にあったと主張している。そうであるとすれば、日和佐八幡宮が和耶神社にふさわしいと考えられる。 |
由緒 正平6年(1351)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。『阿波誌』に「八幡祠日和射浦にあり。観応2年(1351)置く」とあり。『四河内大小神社神体控』(薬王寺所蔵)に「惣社八幡大菩薩、日和佐浦村、観応2年、当院(薬王寺)に遷宮仕り来りし古き棟札の控あり、玉殿三宇、神体9体、祭神・仲哀天皇、応神天皇、神功皇后」とある。(注、正平は南朝、観応は北朝の元号)。四国霊場第二十四番札所最御崎寺、及び東京の国立博物館に所蔵の円卓に「歳次、干時、康暦元年(1379)5月、日巳未、阿波国海部郡日和佐保、八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。『海部郡取調廻在録』は「日和佐村。此村は和名抄に出たる和射郷名ならんか。されば連続せる村……みしるし侍る。まづ日和佐は四河内と唱へ牟岐七ケ村と唱ふ。其余には阿部浦、由岐浦里、木岐浦里なり。これらを往古は和射と唱へしものなるはなほ海部郡名阿部などの考は別冊とてさし上まつり候。神社・八幡大神宮、祭神・神功皇后、応神天皇、玉依姫命。観応2年の棟札流失と伝ふ。<永正17年棟札写し>奉造営日和佐八幡大神宮御社壇上棟永正7庚辰年、大願主松島五郎左衛門永真、源重弘、源真弘、源義家、弥次郎、神主・八郎、鍛治六郎右衛門、大工・清原広家、氏郎右衛門」と録す。『海部郡誌』には「日和佐は往古和射郷の中心であった地で、式内和耶(射)神社の所在地と推定されるところから、当八幡神社の前身は、式内和耶(射)神社ではないか」と。なお当神社には永正17年(1520)の棟札を所蔵している。 例祭には大神輿の渡御があり、桜町、東町、など町内各地区から8台の「勇み太鼓」(ちょうさ)が練り、雄大な大浜海岸に出てはやしたてる光景は、南国的な明朗で豪快な県内有数のスケ−ルの大きな祭風景といえよう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日和佐八幡神社 日和佐八幡神社 御祭神 主神 誉田別命 応神天皇) 母神 息長足姫命(神功皇后) 妻神 玉依姫命(神武天皇の御母后) 御神徳 交通安全 無病息災 家内安全 学業就授 由緒 正平6年(1351)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。「阿波志」に「八幡祠日和射浦にあり。観応2年(1351)置く」とあリ。「四河内大小神社神体控」(薬王寺所蔵)に「惣社八幡大菩薩、日和佐浦村、観応2年、当院(薬王寺)に遷宮仕り来りし古き棟札の控あリ、玉殿三字、神体九体 祭神、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后」とある。(注、正平は南朝観応は北朝の元号)、四円霊場第二十四番札所最御崎寺、及び東京の国立博物館に所蔵の円卓に「歳次、干時、康暦元年(1379)5月、日己未、阿波国海部郡日和佐保、八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。「海部郡取調廻在録」は「日和佐村。此村は和名抄に出たる和射郷名ならんか。されば連続せる村…みしるし侍る。まつ日和佐は四河内と唱へ牟岐七ケ村と唱ふ。其余には阿部浦、由岐浦里、本岐浦里なリ。これらを往古は和射と唱へしものなるはなほ海部郡名阿部などの考は別冊とてさし上まつり候。神社八幡大神宮、祭祀神功皇后、応神天皇、玉依姫命。観応2年の棟礼流失と伝ふ<永正17年棟札写し>奉造営日和佐八幡大神宮御社檀上棟永正七庚辰年大願主松島五郎左衛門永真、源重弘、源真弘、源義家、弥次郎、神主、八郎、鍛治六郎右衛門、大工、清原広家、氏郎右衛門と録す。「海部郡誌」には「日和佐は往古和射郷の中心であった地で、式内和耶(射)神社の所在地と推定されるところから当八幡神社の前身は、式内和耶(射)神社ではないか」と。なお当神社には永正17年(1520)の棟札を所蔵している。 例祭には大神興の渡御があり、桜町、東町など町内各地区から八台の「勇み太鼓」(ちょうさ)が練り雄大な大浜海岸に出てはやしだてる光景は、南国的な明朗で豪快な県内有数のスケールの大きな祭風景といえよう。 社頭掲示板 |
日和佐八幡神社 正平六年(1351年)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。「阿波誌」に「八幡祠日和射浦にあり。観応二年(1351年)置く。」とあり。 「四河内大小神社神体控」(薬王寺所蔵)に「惣社八幡大菩薩、日和佐浦村、観応二年、当院(薬王寺)に遷宮仕り奉りし古き棟札の控あり。玉殿三宇、神体九体、祭神、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。」とある。(注 正平は南朝、観応は北朝の元号。) 四国霊場第二十四番札所最御崎寺、及び東京上野の国立博物館に所蔵の円卓に「歳次、干時、康暦元年(1379年)五月日巳未、阿波国海部郡日和佐、八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。「海部郡取調廻在録」は「日和佐村。此の村は和名抄に出たる和射郷名ならんか。されば連続せる村しみしるし侍る。まづ日和佐は四河内と唱へ牟岐七ヶ村と唱ふ。其余には阿部浦。由岐浦里。木岐浦里なり。これらを往古は和射と唱へしものなるはなほ海部郡名阿部などの考は別冊とてさし上まつり候。神社八幡大神宮、祭祀、神功皇后・応神天皇・玉依姫命。観応二年の棟札流失と伝ふ〈永正十七年棟札写し〉奉造営日和佐八幡大神宮御社壇上棟永正七庚辰年。 大願主松島五郎左衛門永真、源重弘、源真弘、源義家、弥次郎。神主八郎、鍛冶六郎右衛門 大工 清原広家、氏郎右衛門と録す。「海部郡誌」には「日和佐は往古和射郷の中心であった地で、式内和耶(射)神社ではないか。」と。なお当神社には永正十七年(1520年)の棟札を所蔵している。 例祭には、大神輿の渡御があり、戎町、東町、桜町など町内各地から八台の「ちょうさ(太鼓屋台)」が練り、海亀の産卵で有名な大浜海岸に出てはやしたてる光景は、南国的な明朗で豪快な県内一のスケールの大きな祭りとなっている 公式HP |
日和佐八幡神社 正平6年(1351)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。 『阿波誌』に観応2年(1351)八幡祠日和射浦に置くとあり。薬王寺所蔵の『四河内大小神社神体控』に、惣社八幡菩薩日和佐浦村観応2年遷宮壮候との古き棟札の控えありとある。 東京にある国立博物館の所蔵の円卓に「歳次、干時康暦元年(1379)5月日己未、阿波国海部郡日和佐保、八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。『海部郡誌』には、日和佐は往古和射郷の中心であった地で式内和耶(射)神社の所在地と推定される事から当八幡神社の前身は式内和耶(射)神社ではないかとある。 当社が所蔵している永正17年(1520)の棟札には、「奉造営日和佐八幡大神宮御社壇上棟永正7庚辰年 大願主松島五郎左衛門永真、源重弘、源義家、弥次郎、神主 八郎、鍛冶 六郎右衛門、大工 清原広家、氏郎右衛門」と録す。 徳島県神社庁 |