和耶神社
わやじんじゃ
羽浦神社 に合祀
所在地 社名














   【延喜式神名帳】和耶神社 阿波国 那賀郡鎮座 
   【延喜式神名帳】和奈佐意富曽神社 阿波国 那賀郡鎮座 
          (旧地)和耶神社旧地
   【現社名】羽浦神社
   【住所】徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
       北緯33度57分53秒、東経134度37分47秒
   【祭神】(和耶神社)淡夜別尊
   【例祭】(羽浦神社)10月13-15日 例大祭
   【社格】(羽浦神社)旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       貞観8年(866)従五位上
       承平5年(935)奉幣
       天承元年(1131)海賊平定祈願のため奉幣
       明治42年八幡神社に合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは能路寺山にあつた
        明治42年八幡神社に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「今熊野権現」「今熊大明神」と称していた
   【社殿】(羽浦神社)本殿神明造
       (羽浦神社)幣殿・拝殿・神饌所・神輿庫・屋台倉庫・社務所・絵馬殿

   【境内社】

明治42年内務省の方針により神社統廃合が行なわれた結果、「崇敬者の少なかつた」(中山神職の言)和耶神社も他社と共に村社八幡神社に合祀することになり、明治43年現称「羽浦神社」となつた。
和耶神社は西に1Kmほど離れた能路寺山にあったといわれる。近くには能路寺山古墳群がある。


由緒

羽浦神社
當社は、明治43年7月15日内務省神社局及び徳島県の訓令により、村内に奉斎せられし、左記23社40柱をこの地に鎮座の村社八幡神社に合祀し、社名を羽浦神社と改称、羽ノ浦の里の総氏神として奉祀せられ昭和12年6月30日郷社に昇格現在に至る。
茲に於てまず八幡神社の縁起について記する。
創立年代不詳といえども、古書及び社伝を見るに、天正年間阿波国蜂須賀家政公、国内平穏、家運長久、御鷹狩安全祈願のため、當社に参拝、挙正寺をして八幡宮(後八幡神社と称す)の別當職たらしめ、當社の社殿を再建す。又慶長8年国主蜂須賀至鎮公御成りの砌、蜂須賀家代々の祈願所に指定下さって萬治元年蜂須賀光隆公・家運長久御鷹狩安全の祈願を斎行せられ、山上に鎮座せし、社殿を現在地に建立、その折當社の社紋を鷹羽の打ち違えを用いるべき旨仰せられ、爾来国主領主の祈願所とせられること久し。
次に合祀せられし神社の内特筆すべきは宮倉字背戸田に鎮座の式内社和那神社(第56代清和天皇貞観8年従五位上に叙せられる)である。式内社とは今より約1100年前第60代醍醐天皇の御宇延喜式の神名帳に登載せられし神社をいい、由緒等最も古く、當時の古社であり朝廷を始め国家よりの尊崇頗る篤く阿波国で50座・年毎の祈年祭に国司の奉幣にあずかりし名社である。和那神社は式内社那賀郡7座の内の1座に数えられ、更に大日本史及び社殿に和那神社祭礼「毎歳立春前一日村民集社前追儺行事畢三唱神号謂之和那和那神事社名因茲夜不眠云々」とあり、節分の日村民相集まり各自の厄除・災難除祈願の追儺神事が盛大に斎行せられし事が明記され、御祭神は諸厄・諸災難除の守護神とされている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



羽浦神社

当社は明治42年10月15日内務省神社局及び徳島県の訓令により村内に奉斎せられし左記22社40柱をこの地に鎮座の村社八幡宮に合祀し社名を羽浦神社と改称羽ノ浦の里の総氏神として奉祀せられ昭和12年6月30日郷社に昇格現在に至る。
茲に於いてまず八幡神社の縁起について記する。創立年代不詳と雖も古書及び社伝を見るに、天正年間阿波国主蜂須賀家政公国内平和家運長久鷹狩安全祈願のため当社に参拝本正寺をして八幡宮(後八幡神社と称す)の別当職たらしめ当社の社伝を再建す。又慶長8年国主蜂須賀至鎮公御成の砌蜂須賀家代々の祈願所に指定下って万治元年蜂須賀光隆公家運長久御鷹狩安全の祈願を斎行せられ、山上に鎮座せし社殿を現在地に建立その折り当社の社紋を鷹羽の打ち違えを用いるべき旨仰せられ爾来国主領主の祈願所とせらるること久し。
次に合祀せられし神社の内特筆すべきは宮倉字背戸田に鎮座の式内社和耶神社第56代清和天皇貞観8年従5位上に叙せられるである。式内社とは今より約千百年前第六十代醍醐天皇の御宇延喜式の神名帳に登載せられし神社をいい由緒等最も古く、當時の古社であり朝廷を始め國家よりの尊崇頗る篤く阿波國で五十座年毎の祈年祭に國司の奉幣にあづかりし名社である。和耶神社は式内社那賀郡7座の内の1座に数えられ更に大日本史及び社伝に和耶神社祭礼「舞歳立春萌一日村民集社前追儺行事三唱神号謂之和耶和耶神事社名因茲夜不眠云々」とあり節分の日村民相集まり、各自の厄除災難除祈願の追儺神事が盛大に斎行せられしことが明記され、御祭神は諸厄諸災難除の守護神とされている。
以上が當社の略記であるが、時代の推移にともない神社の御祭神及び由緒等不明の人々が多くなるを憂いこのたび有志諸賢の発起と橋本氏の篤志により本碑を建立し、氏子崇敬者江湖に資するものである。
昭和59年10月吉日
羽浦神社 宮司 中山敬子

社頭掲示板



羽浦神社

明治43年中庄村、宮倉村に祀られていた和耶神社等23社を村社八幡神社に合祀して、羽浦神社と改称し、羽ノ浦の里の総氏神さんとして親しまれ、地域守り神として、また精神共同体の中心として、人々の崇敬殊の外厚く昭和12年郷社に昇格して現在に至る。八幡神社は、天正年間(1586頃)阿波蜂須賀家政公が国内平穏、家運長久、鷹狩り安全のため参拝され、慶長8年(1603年)蜂須賀至鎮公が蜂須賀家代々の祈願書と指定された。その後蜂須賀光隆公が祈願された際、社紋に鷹羽ねの打ち違えを用いるように仰せられ、爾来国主領主が祈願された。
 和耶神社は、式内社とよばれ、後醍醐皇時代、延喜式(西暦905年編纂開始)の神名帳に搭載され、由緒等最も古く、当時、朝廷を始め国家から尊崇すこぶる篤く毎年祈年祭に国司の奉幣にあずかる歴史のある名社です。御祭神は諸厄・諸災難除けの守護神とされている。
 和耶神社は、大日本史及び社伝によると、節分の日村民の人々が相集まり、各自の厄除け、災難除け祈願の追儺(ついな)神事が盛大に執り行われたこと明記されている。
 羽浦神社の祭礼に奉納される獅子舞は、明治8年ごろから那東原の弁財天の祀りに悪魔祓いとして始められ、羽浦神社に合祀後は那東原、中塚が合同して祭礼の宵宮に奉納するようになった。子供が拍子を打ち、青年によって舞い、舞は、獅子舞、ね舞、雲舞、谷渡りの舞、天井舞の5つの型に別れ、頭部と尾部の2人で舞う、全国的に珍しいので羽ノ浦町時代民族無形文化財(郷土芸能)として昭和39年に指定され、合併後阿南市に引き継がれている。

徳島県神社庁



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