御懸神社
みあかたじんじゃ
豊国神社 境内社
所在地 社名

















   【現社名】御懸神社【豊国神社境内社】
   【住所】徳島県小松島市中郷町豊ノ本 4
       北緯34度0分45秒、東経134度34分25秒
   【祭神】大己貴命または事代主命
   【例祭】9月14日、秋季例祭、豊国神社と同日に執行
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとはJR小松島線の線路地にあつた
        明治45年豊国神社境内に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

御懸神社はもとは豊国神社の社地に接して、東西に走るJR小松島線の線路地にあつた。明治45年に鉄道工事がはじまり隣接の豊国神社の片隅に移された。(小松島線は廃線となっている。神社の旧地は不明)
豊国神社は豊臣秀吉を祀つた神社で、慶長19年(1614)に落成した壮大な神社であつた(現在の千代小学校付近にあった)。しかし蜂須賀第4代の藩主光隆が幕府をはばかり、取壊しを行つて廃れていたのが明治初年に附近住民により再興された。
鳥居横に末社が4社1棟にありその本殿に近い方から「御県神社・住吉・瑜伽・加藤清正」が祀られている。


豊国神社

蜂須賀家政は太閤秀吉を追慕し慶長19年(1614)千代の松原の西北に壮麗な社殿を造営して祀る。のち徳川氏を憚り殿宇をことごとく取り壊し寛政6年(1794)この地に造営した(神像は市指定文化財)

社頭掲示板



豊国神社

豊国神社は、豊臣秀吉の死後(慶長四[1559]年)、蜂須賀家政(蓬庵)・至鎮が豊臣秀頼(もしくは片桐且元)より拝領したとされる『木造 豊太閤像』を神体(非公開)としています。太閤像は、平成6年に調査がおこなわれ、慶長年間造と考えられています。当初、豊国神社は小松島市中田町に所在し、旧豊国大明神の礎石とされる石材が移され境内に残っています。
蜂須賀家政は入道後、小松島市中田に別邸を建て隠居します。慶長十九[1614]年には、その近隣に秀吉を祠る豊国神社とその別当寺として豊林寺を造営します。だがその後、徳川の世となり、正保年間には豊林寺が廃寺に承応年間には豊国神社社殿が毀され、太閤像及び棟札は中郷町松軒文左衛門の預かりとなります。宝永四[1707]年には宝蔵寺(現・堀越寺)が保管することなります。現在の豊国神社は堀越寺の横にありますが、豊国大明神→日吉大明神→日吉宮と改称され、寛政六[1794]年に現在地に建てられ、明治になり豊国神社と再び称されることとなります。阿波学会・徳島県立図書館による『総合学術調査報告 小松島市』には礎石に刻された以下の名が載せられています。『益田左兵衛、細山主水助、佐渡民部、野々村左門、長江刑部、倉知兵庫、長谷川但馬守、山田織部佐、稲田監物、蔵人、内匠、山田』。

小松島市HP



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