明治8年までは杉尾大明神と呼ばれ、素盞嗚尊が祭神であったという説がある。 源義経が嵐の中の船出で、この辺りに到着している伝承がある。やや南の熊山城を攻略し、「勝ちを占める」との縁起をかついで武運を祈った。 |
勝占神社 当社は勝占町中山の中腹海抜65mの高所に鎮座する古い社で今を去る千余年前(西歴927年)の延喜式神明帳にも載っている阿波国五十社の一つ。 古代この附近一帯は海であって出雲系海人の豪族が支配しその大祖神の大己貴命(大国主命)を海に突き出た中山の東端、展望のよい景勝地の当地に祀った。これが勝占神社の発祥であると思われる。 爾来中山をとりまく篠原郷篠原庄の氏神となり、古くは領主たる京都仁和寺より神田七町五反の寄進、源平時代には平家の重鎮田口一族の尊信をあつめるかたわら、小松島に上陸した源義経が屋島にむかう途次ここに参拝し「勝を占める」縁起を説いて士気を鼓舞したとの伝説、あるいは蒙古来襲の国難に当ってが当国代官司の必勝祈願、降って戦国末期には阿波国守護細川持隆の社殿建立、江戸時代には蜂須賀家政ら三代の社参についで治昭の堂宇建立、等々国守級の人々からも篤い信仰が続き今日に至っている。 なお、本殿北の脇社であった金比羅祠は藩初家政に懇請せられて城府鎮護のため二軒屋の勢見に遷宮せられたことは広く人の知るところである。 祭神の大己貴命は古来、農林漁業の神、勝負の神、医術の神として崇められている。 秋の例祭は10月10日 社頭掲示板 |