多祁御奈刀弥神社
たけみなとみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多祁御奈刀弥神社 阿波国 名方郡鎮座

   【現社名】多祁御奈刀弥神社
   【住所】徳島県名西郡石井町浦庄諏訪213-1
       北緯34度4分20秒、東経134度24分41秒
   【祭神】建御名方命 (配祀)八坂刀売命
   【例祭】11月3日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       享保5年(1720)造営
       明治3年11月北民政掛から米五石を下付
       明治7年郷社

   【関係氏族】阿閑氏
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【facebook】 多祁御奈刀弥神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】地神社

高志国造の阿閑氏がこの近くの上浦に住んでいたので、同氏がこの地に生まれたと云われる建御名方尊を祭つたと思われる。
社伝記の記すところとして、信濃国諏訪郡南方刀美神社は、宝亀10年(779)に阿波国名方郡の諏訪大明神(当社)を移遷したとしている。


由緒

当社は石井町浦庄字諏訪に鎮座し、建御名方命・八坂刀売命をお祀りしている。
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保5年(1720)の建築と言われる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




多祁御奈刀弥神社

我等の聖地「諏訪」其の中央に鎮座まします御祭神の建御名方神は、大国主神(大国さま)の御子神で八重事代主神(えびすさま)は御兄神に当たる。御鎮座の年代について今から約千年前延喜式の神名帳にその名が有り、少なくとも千数百年以上前っと言われており、わが国最古の神社の一つに数えることが出来る。又、長野県諏訪市に有る諏訪大社は(宝亀十年(779))阿波から移遷されたとの説もありこれをうらづける説として、
武勇秀でたれば天照大神に豊葦原中国を奉ることを拒み戦ひて長野県信濃國に至り戦利あらず彼地にて崩御、則信濃國諏訪神社尊を奉祀せる官幣大社なり、我諏訪は蓋し尊の御住居地なるか、
一説に尊の戦ひの初めは出雲に近き阿波國の諏訪にて信濃は最後の地なりと有り。更に農耕生産、開運招福、特に武将から勝負の神様として称され戦前戦中氏子が出征する際にはこの神社に武運長久を願ったものである。更に古くは徳島市左古町の山上に諏訪神社あり、これは藩主蜂須賀公が毎年大祭に徳島城より参詣せしが秋季鮎喰川出水の為困難なるにより当社の分霊を此の地に移し佐古の諏訪神社を創立せり。殊に寛文年間(1661〜1673)第四世光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり、奇瑞著しかりし事との説が有る。いずれにしても古き時代より氏子は基より、全国の信仰者等多くの参拝の絶えない尊い神社と言われいる。
平成24年10月吉日

社頭掲示板



式内郷社多祁御奈刀弥神社由緒

延喜式神名帳に阿波五十座大三社小四十七社 名方郡大一座小八座の内多祁御奈刀弥神社是也 名西郡は寛平8年9月5日東西二郡に分け即ち名西郡諏訪村なるべし 阿波志に多祁御奈刀弥祠延喜式為小祀在諏紡村即建卿名止美神也今称諏肪 阿府志に多祁御奈刀弥神社は諏訪に在り諏訪大明神也 大己貴命の御子なり御母は阿波の高志の沼河姫命天水塞比売命なりと云へり 崇神帝の朝に素都乃美奈留命を高志の深江の定国定其所南海の内に美奈刀生れ給ふ 此御名方命は即ち阿波國の諏訪の里の諏訪の神なり 高志の庄は元名西郡高志の郷にして後世麻植郡の或一小郡を加へたるを以て今の牛島村なる高志良と唱ふ地なるべし 水塞姫神は名西郡高志の郷現今は高原村の内往古は塞村といへるを中古に至り堰村とも書きたるものなり 則高原村の内字関傍示に水堰姫の神を祭れる旧跡あり 社伝記に光仁帝の御宇宝亀10未年信濃國諏訪郡南方刀美神社大明神は阿波国名方郡諏肪大明神を移遷し奉るとあり 明治3年諸社調査の節延喜式神名帳に阿波国名方郡多祁御名刀弥神社とある神社なることに確定せられ式内小社となれり 明治3年11月北民政掛より初穂として毎年米五石を下付せられしが翌4年度にて此義廃せられたり 明治4年5月14日公布の社格等差に因り明治7年名西郡一小区の郷社に列せられたり
 抄に建御名方神所佩之剣之神也 阿披郡二小社建布津神社 小社香々美村藤大夫塚に在 今は杉尾大明神 祭神一座神主浦上勘解由 建甕槌男命

由緒書



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