当初は日子刺肩別尊の一座を祀つていたが、後その母君で古事記孝霊記に出る意冨夜麻登玖遡阿禮比売命をあわせ、他の二尊も後世に併せ祀つた。(式内社調査報告) 明治までは現地から1000mほど北に離れた和氣の地に光徳寺と並んでいた。社伝によれば、その昔鮎喰川(あくいがわ)の上流より流れ着いたと伝。旧地は大正年間吉野川の改修で流れの底になつている。 祭り以後三日間の社への参拝を禁じている。 |
天佐自能和気神社 祭神 高皇産霊尊 神皇産霊尊 意富夜麻登玖迩阿礼比売命 日子刺肩別命 延喜式神名帳に曰く小社座祈年国幣に預り給う 古事記に言う孝霊天皇妃に意富夜麻登玖迩阿礼比売命に日子刺肩別命が生れこの皇子を祭神と祭り奉りしなり意富夜麻登玖迩阿礼比売命の父は和知津美命と申し安寧天皇第三皇子師木津日子命の皇子にして淡路御井宮に座し此の由縁などありて日子刺肩別命を淡路に近き阿波の国高崎の地に祭り奉りしなり。 古老伝説 当社例祭後三日間に諸人参拝を許されじと往古よりの慣例なり然るに旧別当この例を犯し翌日参拝なせしところ忽ちにして病を発し遂に不帰と言う今に至るも例祭執行後直ちに神殿へ注連縄を引き廻し三日間諸人の参拝を許されません。当社は吉野川の沿岸に座し洪水に際しては数郡の濁流怒濤の如く社地北方に深淵となり大渦巻きを起し一見人の謄を寒からしむかかる危険の地に依りながら往古より崩壊する事なく社殿は恰も磐石の上に建つるが如し而して洪水に当たりては社殿内自ら御神楽の音を発し水を治め給いしとそ 既に明治32年県下未曾有の洪水なりしが氏子とも一心に大神の加護を念じたれば殿内自ら御神楽音高く聞こゆるや忽ちにして水治まれりと語り伝う 大正元年夏襲来せる大暴風雨に吉野川氾濫し多数の犠牲者を出しこれが復旧作業として吉野川改修工事施工に当り沿岸に鎮座せられたる当社は現在の地に遷座し奉りしなり今に至るも霊験顕著なるに恐懼し参拝するもの絶ゆることなし。 昭和54年11月 社頭石碑 |