延喜式神名帳に「或号麻殖神、或号天日鷲神」とある。 当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。当初はこの「黒岩」の地にあったが、応永2年(1395)地震にて社地崩壊し現在地に遷という。 この忌部山古墳群の発見により、当社が式内忌部神社であったことが再確認されている。 戦国期以降衰退し、享保12年(1727)には種穂神社(吉野川市山川町川田忌部山の種穂山山頂)の早雲民部という神職が、当社神職村雲勝太夫を放逐して横領し、元文年間(1736−41)には同神社に忌部神を併祭するようになり、その子である式部が争論を怖れて当神社を焼き払ったが、旧山崎村(現 山川町北東部一帯)村民の請願により、寛政13年(1801)に早雲式部を罷免し、村雲勝太夫の孫娘に養子をとり、神職を継がしめたという。 式内忌部神社は、長く不明であった。江戸期に吉野川市山川町山崎の忌部神社が式内社に比定され、明治5年、国幣中社に指定された。 ところが式内忌部神社は、美馬郡貞光にあったという説もあり、調査の結果、明治7年に再度太政官布告があり明治8年、正式に山崎の忌部神社が国幣中社に列せられた。 しかし、その後も論争激しく、明治14年、美馬郡西端山を忌部社地と変更した。 これによって更に論争が激しくなり、太政官は、現社地である徳島市内に新たに社地を定める通達を出した。 明治18年、現社地(徳島市)の北側にある金刀比羅神社に仮遷座。 明治25年、社殿の竣工とともに現在地(徳島市)へ遷座。 山崎忌部神社は現在まで、大正・昭和・平成と大嘗祭における鹿服(あらたえ)の貢進を担っている。 |
忌部神社 当社の祭神は天日鷲命・神言筥女命・天太玉命・神比理能売命・津作具命・長白羽命・由布州主命・衣織比女命である、往時には里岩と呼ばれる所にあったが応永12年(1396)秋の地震で社地が崩れ、現地に祀られるようになったと言われる。忌部神社については延喜神名帳にも記載されており明治4年(1871)には国幣中社として列せられているが其の正跡については神社間に論争もあるが忌部神社正跡考の研究資料、かく方面からの考察によってみても忌部神社の正跡は山崎の地であることは先ず正しいと考えられる。大正・昭和大嘗祭にはこの境内に識殿を建て、荒妙を織って貢進した事績や裏山一体の忌部山には古墳を始め数多くの歴史的事績を蔵している。 社頭掲示板 |
山崎忌部神社 山瀬駅の東南約1キロ,忌部山の中腹に,阿波忌部の祖神とされ天日鷲命をはじめ、神言?女命、天太玉尊、神比理能売命、津昨見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命を祭る山崎忌部神社がある。 170段の石段を登ると,昭和43年に改築された美しい鉄筋コンクリートの社殿がある。甲和45年に国営パイロット事業の道路が境内を通り,今では自動車で行くこともできる。 当社は,苦から現在地にあったのでなく,黒岩といわれる所にあったが,応永2年(1384)秋の大地震で社地が崩れ落ち,現社地に祭られるようになった。 忌部神社については「延書式神名帳」にも記載されており,明治4年(1871)には,国幣中社に列せられている。しかし,その正蹟について神社間の争いがあった。 種穂神社を本宮とした時もあったが,国幣中社になった時は,山崎忌部神社に祭られていた。また,明治14年(1881)には西棟山村吉良名御所平に遷され,その後明治18年(1885)には名東郡富田浦町(徳島市)に遷されて現在に至っている。 池上徳平著「国幣中社忌部神社正蹟考」の中で,地理的考察,文献記録,遺跡遺物,口碑伝説等あらゆる方面から考察して,忌部神社の正蹟は山崎の地であると述べている。 大正,昭和の大嘗会には,山崎忌部神社の境内に織殿を建て,荒妙を織って貢進したのも,忌部氏が阿波に渡り,穀麻を栽培したことによるもので,現在阿波,麻植両郡だけに締着の行事があり,子供が生まれると,初めての冬に新しい着物を作って宮参りしたり,ご馳走を作ってお祝いするが,これも忌都民が衣服を調製したことに因んだ故事であろう。 当社は天日鷲神社,忌部大社,麻植神など呼ばれたが,昭和43年4月27日から山崎忌部神社と呼ぶよう決められている。 平成2年木屋平村と山川町が平成天皇の大嘗祭にあらたえ貢進をなすところとなり、麻は木屋平村あらたえ貢進協議会が栽培し、織布は山川町あらたえ貢進協議会が、山崎忌部神社本殿で行い、平成2年(1990)10月30日、両会は新た絵を宮内庁へ供納した。 山川町の文化財 |
大嘗祭の麁服調進 新天皇即位後の大嘗祭(だいじょうさい)に調進する麻織物「麁服(あらたえ)」の制作に携わる吉野川市山川町の山崎忌部(いんべ)神社の氏子らが「阿波忌部麁服調進協議会」(木村雅彦会長)を発足させた。神社周辺の環境整備や関連行事を計画するなどして、麁服の制作に向けて地域の機運を高める。 山崎忌部神社では、美馬市木屋平で作られた麻糸を受け取り、巫女が機織り機で麁服を織る役割を担う。大正、昭和、平成の天皇即位後の大嘗祭でも制作に携わった。完成した麁服は再び木屋平に運んで、宮内庁に調進する。 協議会は昨年秋に発足。氏子のほか、山川町内の自治会や各種団体の代表者ら約90人が参加している。予定では9月から約1カ月間が制作期間となる。会員は、平成の大嘗祭で世話人を務めた関係者から話を聞き、一連の工程や神事の内容などを調べている。 約150段ある神社の石段は、麁服を運ぶ際の重要な通路となる。このため老朽化した石段を直したり、雑木を伐採したりと環境整備にも取り組んでいる。多くの人に関心を持ってもらおうと、麁服や大嘗祭をテーマにした講演会も計画している。神社総代の金谷佳和副会長(68)は「約30年ぶりの名誉な行事。最大限努力していく」と話した。 美馬市木屋平では、昨年10月に地元のNPO法人あらたえ(西正二会長)が主催し、麻を育てる畑の地鎮祭があった。今年4月に種をまく予定。今後、協議会はNPOと連携して準備を進める。 徳島新聞2019.1.12 |