元暦2年(1185)の屋島合戦に敗れて當地に落來つた安徳天皇の御分霊を馬岡大明神と称して、波爾移麻比祢神社に合祀した上、南北朝期に當地八ツ石城に拠つたといふ新田義治公を奉祀し、新田神社として波爾移麻比祢神社に合祀するに到り、それより波爾移麻比祢神社馬岡新田大明神と称するに到つたという(『井内谷村誌』 |
馬岡新田神社 この神社は、延喜21年(921年)選進された延喜式の中に載せられたいわゆる式内社で「波尓移麻比祢神社」と称した。現在同神社に秘蔵されている室町神社の和鏡には側面に「波尓移麻比祢神社御神鏡」と釘彫りされ、室町時代という古い時代から波尓移麻比祢神社と呼ばれていたことがわかる。その後、祖谷へ落ちて来られた安徳天皇を合祠し(元暦年間)更に天正年間に新田義治を合祠し「波尓移麻神社馬岡新田大明神」と改称した。明治27年「馬岡新田神社」と改称し現在に至っている。武大神社と、八幡神社とあわせ三社の森と呼ばれている。 三社の森の中の馬岡新田神社の二本の杉は、周りが6mもある、銘木である。 社頭掲示板 |
馬岡新田神社 馬岡新田神社については、江戸時代の歴史書「阿波志」や「阿波史」も認めており、また後述の遺品などにより間違いないであろう。当時の社名は「波爾移麻比称(はにやまひめ)神社」と呼ばれ、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命・はにやすひめのみこと)を祭ったものである。 現在、馬岡新田神社に遺されている神官の先祖千日太夫の大永2年(1522)の記録に波爾移麻比称神社とある。また、神社の宝として伝えられる竜頭(りゅうず)に正治2年(1200)5月吉辰大工藤原高綱とあり、木鳥の背に「埴山姫神社」と彫られている。 また、明治4年に神社の庭から出土した室町時代の銅鏡の側面に「波爾移麻比称神社御神鏡」と釘彫りされている。これ等を総合して考えるとき馬岡新田神社は、千年以上も昔の百科事典『延喜式』に掲載され、以来ずっと信仰されて来た由緒ある神社ということがわかる。 徳島県神社庁 |
馬岡新田神社 元暦2年(1185)の屋島合戦に敗れて當地に落来た安徳天皇の御分霊を馬岡大明神と称して、波爾移麻比祢神社に合祀した上、南北朝期に當地八ツ石城に拠つたといふ新田義治公を奉祀し、新田神社として波爾移麻比祢神社に合祀するに到り、それより波爾移麻比祢神社馬岡新田大明神と称するに到つたという。 井内谷村誌 |