この地は7世紀美馬郡を統治する郡衙のおかれたところとされる。近くには「段の塚穴」とよばれる大きな古墳や、白鳳期の建立といわれる立光廃寺の遺跡もあつて、この地が県西の文化の中心地であり、美馬郡(今の三好郡も包括する)の政治の中心地として古くから栄えてきたことを物語つている。 昔この社の前を乗馬のまま横切ると勢いよく投げ出され、また吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆すると云われた。そこでこのような災難をさけるためご神体を北向きに鎮座したと伝。 もとは西方200mの高畑の地にあったという。 |
天津賀佐彦神社 神社由来記 延喜式内社 天津賀佐彦神社 御祭神 級長津彦神 級長津姫神 由 緒 当社は西暦6世紀以前に創建されたものと思われ、古墳時代後期、美馬郡境のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が奉仕していた神を祭り風災を鎮め五穀豊穣を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である 社頭石碑 |
天都賀佐比古神社 天都賀佐比古神社(旧村社) 所在地 美馬町字轟32番地 主祭神 級長津彦命・級長津姫命 例祭 10月20日 境内地 598坪 主要建物 本殿・弊殿・拝殿・神庫 氏子 81戸 宗教法人設立 昭和28年4月15日 〔沿革〕 川原部落の西端、轟谷の東側に位置し、阿讃の山々を背景に、郡里ジマの沖積地が眼前に開ける景勝の地に建っている。この社はもと現在地の約200m西、字高畠にあり、創立年代は明らかではないが、延喜式内社としての天都賀佐比古神社に比定されており、既に平安初期から尊信を集めていたようである。 境内中央北寄りに本殿・弊殿・拝殿が南面して建てられ、正面入口には大鳥居、その北側に狛犬、灯籠等が両側に並び立っている。 古くから「轟さん」と呼ばれて、旧郡里里分の総氏神として崇敬され、風の神として知られる。『阿波志』には「天都賀佐毘古祠 郡里村宗重名に在り、或いは轟宮と称す。天正年中(1573〜91)兵燹に罹り、いまだ旧制に復せずと雖も結構頗る大、連松繁苑或は曰く延喜式所載是也と…(後略)」とある。 10月20日の秋祭りには、喜来、中山路、宗重、川原町の各氏子から、屋台、勇台を繰り出し神輿渡御の行列に加わり、数十に及ぶ練り物で行列は一大豪華を極めていた。しかし大正年間よりしだいに祭りも簡素となり、現在は川原町部落八一戸の氏神として祭礼が行われるのみとなっている。 なお、昔からの言い伝えとして、この神前を乗馬で横切ったり、頬かむりで通ると、勢いよく投げ出され、また前の吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆するといわれた。それでこのような災難を避けるため、御神体を北向きに鎮座してあるといわれ、古いお守札には「日本一社北向鎮座」と記されている。 なおこの社の神職として記録に残る古いものでは、寛永18年二宮権頭が奉仕しており、それより代々二宮氏が神職として仕え、二宮正芳に至っていたが、昭和56年以降は加藤熊男が奉仕している。 美馬町史 |