伊射奈美神社
いざなみじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】伊射奈美神社 阿波国 美馬郡鎮座
          (旧地)伊射奈美神社【旧地】

   【現社名】伊射奈美神社
   【住所】徳島県美馬市美馬町中鳥338
       北緯34度2分33秒,東経134度0分39秒
   【祭神】伊弉冉神 速玉男神 事解男神
   【例祭】10月19日例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観11年(869)正五位
       文治3年(1187)再建
       天文年間(1532-55)三好長慶が祈願所に定め、綾地の御先織を献納
       元和3年(1617)蜂須賀家黒昔織、甲冑2領を奉納
       正徳3年(1713)造営
       享保16年(1731)造営
       明治5年9月村社
       平成4年吉野川改修工事のため、現在地に移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは吉野川の中島の中央部、海抜60メートルあまりの丘陵地にあった。
        この地は享和年間(1801年-1804年)の大水で島となった
        川中島になったのは享保11年(1726年)とも
        平成4年吉野川改修工事のため、現在地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

式内社・伊射奈美神社の故地とされている。
第11代垂仁天皇25年、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)が造営され、太田姫命は末社80社を整備したといい、当社はその一社だという。
もとは吉野川の中島の中央部、海抜60メートルあまりの丘陵地にあった。現鎮座地は中鳥338、旧鎮座地は中鳥589。



伊射奈美神社

此の大神は古 天地初発し時 神代七代に到り伊射奈美尊 天神より天瓊戈を授かり天降りましまし 天の浮橋の上に立ち淡路島を生み賜う 其気直に生じ阿波国を生み賜うと天の御柱国の御柱を立て 天地の道に随ひ君臣父子夫婦兄弟朋友並に万物の道を正して教を末の代まで置き給ひ 天地開闢本立を開き給う 是阿波国伊射奈美尊 御鎮座を申し伝え 祭所伊射奈美神社祭り奉ると神名記にも相見え候
中鳥 初め島中に稲を負う鳥止り給う 島中故 中は尊き故上にそなへ置き 中を内へ内へとしめよせ 神社となり給う 中の字は君徳にそなへ鳥の字は下臣の行にそなへ置き給う上下和合の徳にて中鳥と定む
興玉伝説
第11代垂仁天皇25年 皇紀656年紀元前BC4年皇大神宮が造られ 太田姫命は八十の末社を造った
伊射奈美神社は末社となっている

社頭掲示板



伊射奈美神社

 「延喜式」神名帳(平安時代に編纂された官社一覧。これに記載されている神社を式内社という)を見ると、阿波国美馬郡所在の式内社11社のうちの1社に伊射奈美神社の名がみえます。 イザナミと対になるイザナギを社名とする式内社は、淡路伊佐奈伎神社をはじめとして7社ありますが、イザナミを社名とする式内社は阿波国美馬郡の1社のみです。イザナギ神社にはイザナミも併せて祀られることも多かったと考えられますが、あえて女神のイザナミを社名とする伊射奈美神社は、特殊な意味をもつものかもしれません。
 式内社伊射奈美神社の比定地については、延喜式には郡名以下の地名の記述がないため確定はできませんが、美馬町中鳥に鎮座していた伊射奈美神社は比定地の有力な候補と考えられます。

美馬市ホームページ



伊射奈美神社

中鳥島について
中鳥島は、1726年(亨保11年)の大洪水で両岸から切り離された吉野川河口から約58km上流に位置した面積約45ヘクタールの川中島である。昭和9年6月1日に旧半田町から旧重清村に編入された、編入当時の戸数は43戸、人ロ225人であった。
西村・中鳥地区築堤について
吉野川の築堤工事が実施されるにあたり昭和57年に全島買収による住民移転の同意がなされ、昭和63年から64年かけて島内に残っていた28戸が県内外へと移住し、平成2年12月に高瀬谷川の護岸工事が開始され、平成18年3月に中島川樋門が完成している事業延長は3370m(高瀬谷川合流点〜中野谷川合流点)、総事業費は約100億円、事業期間は昭和61年から平成18年3月までの20年間である。
伊射奈美神社・中島城跡・中鳥学校跡について
伊射奈美神社は築堤による全島買収により平成4年10月7日に現在の場所に拝殿、神殿を新築落成している、この際に中鳥城主の墓も現在の伊射奈美神社に移築されている。神社の東側にはかつて吉野川の氾濫になやまされてきた中鳥住民の避難場所となっていた中鳥城本丸跡、島民が生活用水として利用した池が現在も残っている。また、旧中鳥神社境内地南側には、半田尋常高等小学校中島分教所があり、重清村への編入に際し児童は重清村立重清西尋常高等小学校に編入していることを示す資料も残されている。

社頭掲示板



伊射奈美神社

日本一社 延喜式内社 伊射奈美神社
鎮座地 徳島県美馬市美馬町中烏589番地
御祭神 伊邪那美尊 速玉之男神 事解男命
合祀 天照大神 素戔鳴尊 大山祇神 猿田彦大神
神紋 十六菊紋
由儲。神社の創祀は未詳、神話時代の創建とされる淡路、伊佐奈伎神社と同時期と考えられ、伊邪那美尊は国土生みを終え、神陵の地、阿波国美馬郡中鳥、伊射奈美神社を建てられ、阿波の神々の中で、最も格式の高いのは、貞観11年(869)阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う。伊邪那美尊を単独神として祀る全国唯一の神社として、延喜式神名帳に登載される最も格式の高い古社。阿波の美馬郡は古くから田畑の豊饒を祈願、古代の水の神として穀霊、穀神信仰、母神崇拝の稲作にゆかりの霊格の中心地。渡来人の法道仙人が伊宇摩山仏母寺を中烏に建立開基、奈良時代、神社に付属の寺を聖武天皇勅命により忌部神宮寺と寺号を改め、文治3年(1187)神社再建した社殿戸扉に、神代自古御鎮座、伊射奈美尊神社と記す、本殿箱棟に神紋十六菊御紋あり、古昔最も盛大なる神詞にして美馬、三好の総鎮守として伝える。戦国動乱の時代、天文年間(1532)三好長慶の祈願所として綾地の御先幡を献納。元和3年(1617)蜂須賀候祈願の為黒昔幡、甲胃二領奉納、家老稲田植元新願の為長刀を奉納。室町時代の後期、中鳥城主に、元亀元年(1570)浅野但馬守、安土桃山時代天正年間(1573)久来刑馬亮拠る。後に前田京本入道が城主、神社再興の、正徳3年(1713)享保16年(1731)棟札保存。戦国から江戸時代、天文(1532)から明暦(1655)年間に、中鳥村300有余の人家があったとされ、享保11年(1726)大洪水で吉野川南岸から切り離され川中島となる。明治5年9月、官制による神社分類で伊射奈美神社は村社に任ぜられ、明治8年神社建て替え戸扉に神大自古御鎮座、式内村社伊射奈美神社とあり、社殿に保存、昭和9年6月1日中烏は半田町から分離、重清村へ合併。昭和61年(1986)建設省が吉野川洪水時の浸水被害を防ぐため、西村中鳥堤防工事で用地買収、63年に28戸移転、神社は平成4年10月7日現在地に拝殿、神殿を新築落成し御鎮座。
平成19年4月吉日 移転記念碑建之

社頭石碑




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