往古この地に建石神社が鎮座していた(祭神大己貴命)。この建石神社が式内田寸神社に比定されている。 中古、金丸山腹に鎮座していた八幡神社を合祀して金丸八幡神社とよばれた。 境内をとりかこむ玉垣がわりの立石を磐境とみると、いかにも古社のたたずまいである。 前方の金丸山全体が神山であつて、加茂川にそう渓谷には岩蔭遺跡があり、先史時代の石器(旧石器も)や土器が出土している。また周辺には、4世紀の頃の前方後円積石塚の丹田古墳(県史跡)をはじめ多くの古墳群があり、北方には白鳳期の金丸廃寺跡や極樂寺跡があり、文化的にも早くひらけたところである。また、この界わいには條里の遺構もみられる。 |
八幡神社 八幡神社の由来 祭神 神功皇后・応神天皇・武内大臣 沿革 大昔この地に神が祀られその神域の境界を示すものとして磐境が残っている。 萬治3年(1660年)に八幡宮として新しく建てられ、その後何回となく再興・修理が加えられ維持されてきた。 明治4年神仏分離後、八幡神社と改称し神殿を造営し、明治13年弊殿・拝殿を新造し現在の神社となった。 明治42年、地域の小宮を集めて境内神社として社殿を作った。 平成8年、社殿全体の老朽化に伴い、氏子の発意で大規模改修工事を行った。 祭礼は、毎年4月15日・10月15日の例大祭、10月14日の夜は徳島県指定無形文化財「宵宮の神事」の神楽舞いが奉納される。 これらの諸行事は、山路山畑、中井、西光角の四部落の当屋持ち回り制で行われている。 平成9年4月吉日 氏子中 社頭石碑 |
八幡神社 県指定無形民族文化財 金丸八幡神社の宵宮の神事 この神事は、毎年秋祭りの前夜、10月14日の夜この神社の前庭で行われ、現在では降神の行事を神代神楽が中心となっている。拝殿の前に2本の長い青竹を渡し、これはオンジャク(円形の御魂代)を下げ、庭で火(庭燈)を焚き、オンジャクの綱を勢いづかせながら前後に振動させているうちに、御魂代は、うなりをあげて拝殿から神殿に到達する。この降神の行事が終わると若者6人による神楽「剣の舞」と「乙子の五郎の舞」が激しくまわれる。 指定年月日 昭和30年5月6日 徳島県教育委員会 三加茂町教育委員会 社頭掲示板 |
八幡神社 歴史 八幡神社は東みよし町中庄字村道南1 1 8 7 番地に鎮座する。旧村社。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・天津加佐比古命・竹内宿禰命)。創 立年代は不詳であるが,慶長11年(1 6 0 6)遷宮の棟札を有する。明治28年(1895)の古社取調書によれば,往古は建石神社と称し大己貴命を祀っていたが,中古字明ノ堂に鎮座の金丸神社を合祀し金丸神社と称するようになったという。この名称は同社が金丸郷一円(金丸三ヵ庄=中庄・西庄・毛田)の氏神とされたことによる。中興武門の命により金丸郷八幡宮と改称し,さらに正八幡宮に改称,明治3年八幡神社とした。往古,境内東に別当寺があった。祭典は旧金丸三ヵ庄氏子により行われ,享保年間までは退廃に傾いていたが,同12年神主金太夫西庄益太夫,毛田神職都合神官神職6名導師長善寺林下寺立ち会いにて例祭を執行するようになった。 中世期(鎌倉〜室町期)には当地は「金丸庄」と呼ばれ,京都醍醐寺の領地であった。三宝院文書の寛喜3年(1231)3月28日付の成賢僧正譲与状の中に,遍智院領として「阿波国金丸庄」の名が見える。 醍醐寺三宝院は近世期には真言派修験(当山派)のセンターとして強大な勢力を持つに至るが,中世期の醍醐寺(修験)も,当地の宗教文化に少なからぬ影響を与えたものと思われる。同じ中庄にある五滝神社は,往古,滝の丸の山上に鎮座していたことにより清滝十二社権現と称したと言うが,清瀧権現は醍醐寺の守護女神であり,旧金丸庄の鎮護のために祀られたものと考えられる。 東みよし町「旧三加茂町」中庄・八幡神社の 宵宮神事について |