社殿は、はじめ莫越山の遥拝所として造られ、後世、里宮が建てられるまで山そのものを御神体として拝祀していたと思われる。 当社は江戸時代の頃から、祭神の関係より工匠の祖神として、江戸の大工・棟梁達からも尊信を受けた。 |
由緒 当社は、天正天皇養老2年(718)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年、天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請によりその祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。 古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率いて、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。さらに神武天皇が大和国内を平定して橿原を都と定めた時、天富命が手置帆負命、彦狭知命二神の裔の一族を率い、紀伊国名草郡御木、あらか郡より斎斧斎鋤を以て始めて山の材を伐りて宮城の正殿を造り、これがわが国建築のはじめとされる。更に神武天皇の命により四国の阿波に赴き麻殻を殖培し、のち天富命は更に肥沃な土地を求め、阿波忌部氏を率いて舟で東方に向かい今の房総半島に上陸し、水利と渡度、狐座、御木の三官有林を中心とした豊かな山林に恵まれたこの地を開拓し故国の地名より安房と称し定住し、それまで土着の民の祀っていた神体山の渡度山(莫越の山)に祖神を祀り、また付近に莫越山神社を中心として、古墳時代後期には神祭が盛んに行われていたことを物語る東畑遺跡、石神畑遺跡、六角堂遺跡などが発掘されている。 社殿は、はじめ遥拝所として造られ、後世、里宮が建てられるまで山そのものを御神体として拝祀し、万寿2年に再建され、さらに治承年中修造、天正7年、社殿修造莫越山神社と奥の院、渡度神社修造の棟札もみられ、寛文9年再造、元禄16年、大地震により社殿倒壊を受け、寳永4年、時の領主酒井氏再建のち関東大震災により社殿倒壊をうけ、氏子はもとより遠く県外よりも多くの浄財がよせられ、昭和2年、現社殿が再建された。 古く地名に斎部屋敷、幣造谷、番匠屋敷、禰宜屋敷、御木舞原、神火屋敷、尋岡、馬洗場都々井、神花屋敷、莫越澤などの地名も使われていた。 又、往古宮下を北限とした条理制遺構が字中之坪、字榎坪、字上八反目などの地割が丸山川流域平野の奥に広がり式内社莫越山神社の存在を見るうえでの背景の一といえる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
莫越山神社 莫越山神社 御神像・朱印状 平成4年4月1日 丸山町指定文化財 由緒 社記に「莫越山神社は、養老2年(718)神体山の麓である現在地に遥拝所として造営されたもので、延喜式神名帳所載の神社(式内社)安房国六座中の一である。」と記され、古くから多くの信仰を集め、とくに工匠の祖神としてあがめられ、この地域の中心的神社として今日に至っている。 ○木造 御神像 二躯 二神像ともに衣冠を着用し、拱手して立ち、二柱の御祭神(手置帆負命・彦狭知命)の像として崇拝されて来た。 両像ともに檜の一木造りで、全体的に簡略化が進んでいるところから、南北朝中期(14世紀中頃から末頃)の作と推定される。 像高 肘張 胸奥 総高 (1) 46.0cm 16.4cm 10.0cm 48.0cm (2) 45.5cm 14.4cm 7.9cm 47.5cm ○里見義康 朱印状 附曼荼羅(和紙) 天正19辛卯の年(1591)安房国主里見義康は、領内の社寺や家臣・職人等に対し、朱印状をもって土地の寄進や知行地の宛行を行ったが、これは当時の莫越山神社の神職にあてられたものと推定される。 日付けは「辛卯7月26日」、宛所は「岩波弾正かたへ」となっている。 朱印状 縦16.6cm 横45.7cm 龍朱印 5.75cm角の方印 龍図を含めて 縦9.1cm 曼荼羅 縦8.2cm 横約8.36cm 丸山町 朝夷地区教育委員会 莫越山神社 社頭掲示板 |
祖神講再興碑 往古宮下邑有名社曰莫越山神社為養老二年元正帝勅願所□神□□□□□□□□二神也世称二神者尺度神而本土工匠之祖神也因□昔創祖神□者永□事二神□□滄□□世□盛衰時有興廃講社継紹泯々而僅存焉按本社宝物帳有記曰宝暦十一年辛巳江戸講中京橋弓町先達大工渡辺萬右衛門渡辺平八奉納物皆云々又文政十年丁亥三月江戸橘町石工伊賀屋定吉寄進狛犬一対由是観之可識当時有信徒□散在江都聞者天保十年己亥六月八日奉納神鏡並神前五具足同十三年壬寅二月八日寄進永代護摩□并什器又本願人名主組頭百姓代等九人各□資金毎人弐分其他五十余人各壹分其金総額逮拾八両参分神苑所建巨石今尚□其金員□氏名後又同年十二月十二日奉納獅首神楽一頭本社世々以高雲寺住職為別当際明治維新官令禁神仏混淆因解別当職爾後神官屡異動祖神講亦随廃絶矣今茲巳酉五月信徒相議再糾合旧故并職業于工匠者得官充以□講社復興其意即在一以興廃祀而存□羊一以処二神而謀工匠之利生仍略叙其沿革以勧再興於石云雨 明治四十二年歳次巳酉五月龍集 社頭石碑 |
莫越山神社 丸村宮下に在り。元正天皇養老2年勅願所にかかる。 手置帆負命・天彦狭知命を奉祀せし古社なり。社字を擁して老松喬杉亭々轟々、自ら神徳の高きを仰ぐべし。 社記に曰ふ、萬壽2年宮殿を再建し、天正7巳卯3月宮殿を修造し、寛文9年己酉6月再び造営。元禄16年11月大地震のため祠悉く破壊す。寶永4年10月領主酒井玄蕃頭資財を投じて之を建つ。 寶蔵に扁額一面あり。中に安房六座中莫越山神社、東都興元祥謹書とあり。或は錦断片或は瓦器木椀古色愛すべし。又輓近傍地を発掘して獲る物、幾ど石剣に類せりといふ。且つ此の地を称して宮下と云ふを見ても往古の名社たりしを知るべし。 千葉県安房郡誌 |