洲宮神社
すのみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】安房坐神社 (名神大 月次新嘗)安房国 安房郡鎮座
          (旧地)洲宮神社【旧地】

   【現社名】洲宮神社
   【住所】千葉県館山市洲宮921
       北緯34度57分9秒,東経139度50分17秒
   【祭神】天比理刀当ス
   【例祭】8月9日 例祭
   【社格】
   【由緒】神武天皇元年創祀
       文永10年(1253)社殿を当地に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初魚尾山に祀る
        文永10年(1253)社殿を当地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿

   【境内社】

神武天皇元年、魚尾山に天冨命が創祀という。
魚尾山は、当時海辺にあったため、洲神、洲宮と呼ばれた。
亀山天皇文永10年(1253)、社殿を当地に遷したという。
『洲崎神社伝記』では、洲宮神社は始め明神山の洲の辺に鎮座していたが、後に魚尾山へ遷座、文永10年(1273年)10月15日の夜に発生した火災により社殿を焼失して長らく仮宮に鎮座し、永享11年(1439年)10月に現在地へ遷座したと伝える。
教部省は、明治5年に当社を一旦式内社と定めたが翌6年には決定を覆えして、洲崎神社の方を本来の式内社と改めて決めている。


洲宮神社

市指定有形文化財
木造天部像
昭和44年2月21日指定
一木造りで、両手は肩で矧ぎつけていますが、右碗は失われ、左手もひじより先がなく、顔の損傷もひどいため像容は不明です。四天王か二天王のうちの一体、あるいは毘沙門天像と考えられます。忿怒像にしてはおだやかな感じのする像です。
像高は76.5cm。全体に彫りが浅く、藤原風の印象もありますが、体は偏平で、足が細いので動きもあまりみられず、体にくらべて頭がやや小ぶりに見えます。細部は省格されたところもあり、南北朝期から室町時代前期にかけて制作されたと考えられます。
当社に伝えられているのは、神仏習合の時代の名残でしよう。
市指定無形民俗文化財
洲宮神社御田植神事
昭和44年2月21日指定
その年の豊作を願つてなされる予祝儀礼で、毎年元日の朝に洲宮神社神前にて行われます。
羽織袴姿の作男が大声で唱える言葉に従つて、まず氏子が竹の鍬で田うないの所作をしまず。続いて牛の役の者が代かきを行い、作男が籾まきをします。牛は、伊勢の暦の恵方によつて選ばれた新婿が努めます。最後に、早苗を模した松葉を手に、氏子が田植えの所作をして、行事を終えます。
館山市教育委員会

社頭掲示板



文化財

館山市指定文化財
有形文化財 木造天部像 南北朝期から室町時代前期の作。神仏習合時代の四天王か二天王のうちの一体、または毘沙門天像とされる。昭和44年2月21日指定。
洲宮神社縁起 洲宮神社の縁起を記した文書。成立年代は不明だが、『古語拾遺』からの引用があり、平安時代以降とされる。本文のうちの3分の1は、失われた『安房国風土記』と推定されている。昭和44年2月21日指定。
祭祀用土製模造品 古墳時代後期の祭具。旧社地とされる魚尾山(とおやま)から出土。昭和44年2月21日指定。
無形民俗文化財 洲宮神社御田植神事 毎年元日の朝に豊作を願って行われる予祝儀礼。昭和44年2月21日指定。


洲宮神社

安房郡神戸村大字洲宮の中央に在り、境内五百七十坪、祭神は天比理乃当スなり。社伝に云ふ、神武天皇元年4月中卯ノ日、天富命其の母神を舊洲宮村の南方魚尾山の上に祀り給ふ、當時海濱に接せしを以て洲神域は洲宮と稱す(山上猶洲宮の字あり慶長元和の水帳亦これを記せり)文永10年12月15日火災に罹り今の地に移すと。祭日は8月11日にして古来舊洲宮・藤原二村の氏神たり、明治18年4月17日縣社に列せらる。明治39年幣帛料供進指定

稿本千葉縣史



洲宮神社

すのみやじんじゃ 千葉県館山市洲宮。
旧県社。祭神は天比理刀当ス、后神天比理刀当ス神社ともいい、安房神社の祭神との関係が深い。社伝によると神武天皇元年、魚尾山に祀られたのが創始であるという。安房神社と同じく朝廷の崇敬が篤く、仁明天皇承和9年(842)に従五位下を授けられ、文徳天皇仁寿2年(852)に従三位を加え、清和天皇貞観元年(859)に勲八等から正三位に累進し、延喜の制、大社に列せられる。
鎌倉時代に入り、治承4年(1180)に源頼朝が社参して神田を寄進し、翌年在庁官人等の神領を押妨することを停止させた。亀山天皇文永10年(1273)に社殿が炎上して現社地に遷る。正平元年(1346)、神崇があったので使を遣わして社司に中祓を科したことがある。例祭8月11日。なお、横浜市神奈川区宮前町に鎮座する洲崎大神(旧郷社)は安房神社から勧請されたことから本社との関係が深いと考えられる。

神社辞典



縣社 洲宮神社

祭神 天比理刀当ス
祭神は天太玉命の后神なり、伝云ふ、神武天皇、元年辛酉4月中卯日、天富命、勅許を蒙りて魚尾山に奉祀すと当時其山、海邊に在り、故に洲神、又は洲宮と称す、今に同山上洲宮の字あり、(慶長元和の水帳も、亦之を記せり)後ち海面漸次干潟となり、現今海を距る七町除に至る、亀山天皇文永10年癸酉災上の爲め、今の地に奉遷す、社領は七石、古来洲宮藤原二村の氏神たり、(参酌、社記、大日本国誌、寺社分限帳)明治6年縣社に列す、社殿は本殿、中殿、秤殿等あり、境内は270坪、(官有地第一種)たり。
延喜式の后神天比理乃当スは、其書に載すが如く洲神(一本作洲崎嘉亜美)にして、國史現在社なるが、本郡洲神又は洲崎神と称するもの二あり、即ち当社及び洲崎神社とす、學者其の見る所に拠りて、或は当社を以て之に擬し、或は洲崎を以て之に擬せしが、明治5年、当局者は、一時当社を以て式社と定めしも、翌6年之を取消して、更に洲神社を以て式の后神天比理乃当ス神社とせり、当時の太政官日誌に云く、
「先般其管内安房國安房郡洲宮村洲宮神社ヲ、延喜式内后神社卜相定指令候処、猶詮議之筋有之、右者取消更ニ同郡洲崎村鎮座洲崎社ヲ以テ、延喜式内后神天比乃理刀当ス神社と相定候條、此段相達候事、
明治6年4月14日教部省」
更に5月19日教部省達に云く、
「壬申9月中、洲宮神社ヲ以テ、式社卜相疋候儀ハ、同社ハ旧記等現在シ、且安房神社へ神幸之祭式モ有之、洲崎神社ハ旧記一切無之、偶延喜式一本ニ后神天比乃理刀当ス神社、(大元名洲崎神)ト見エ候得共、印行一本ニハ洲ノ神ニ作レリ、傍確証無之候條、洲宮之方、式社ニ判定、及指令候処、爾後地勢ヲ探索シ。古書ヲ考究ニ及候ニ。洲宮神社の海岸ニ隔リテ、洲ノ神或ハ洲崎神ト可称地ニアラズ、且東鑑治承5年2月10日條下知状ニ、須宮神官トアルハ、即今ノ洲崎神社ナレバ、所謂洲神タルコト明白也、然レバ今ノ洲宮神社ハ、旧記等ヲ存スト雖モ、元洲崎神社ヲ移シ祀レル者ニシテ、洲崎神社ハ、多年佛徒ノ奉祀トナリ、且中古既ニ八幡トサへ誤來リ、旧記旧説竝祭典故事等、皆亡失シ、今ニ存スル者ナシト雖モ、其式社タル義、明白ニ候條、本年4月中更ニ改正、洲崎神社ヲ以テ、延喜式内后神天比乃理刀当ス神社ト相定候儀ニ付、此旨可相心得事、
明治6年5月19日 教部省」
とあり、然れども尚未た明確ならざる所あれば、未だ以て該問題を解決し畢れりと為すこと能はざるべし、吾人は寧ろ金丸家系に左袒し、二殿一社説に從ふを穏なりとす、家系に云く、
「安房郡洲宮村字魚尾山鎮座、洲宮后神社、後称洲宮明神、使其奥殿曰二之宮、亦洲崎村字手洗山在洲崎明神、使此拝殿曰一之宮、故称地名手洗山、此両社天比理刀当ス。延喜式内大社也、」
と、政府亦是に意あるか、教部省達を以て、洲宮を式社に非すとし、洲碕を式社とするの理由を公表して後、僅一旬にして、当社を以て洲崎神社と共に縣社に列せり。

明治神社誌料



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