式社名は「キサキノカミアメヒリノメ」と読み、天太玉命の第一后神のことである。 鎮座地御手洗山は御神体山として古代信仰の聖域であった。 祭神の天火乃理姫命の「五尺のおかもじ」という御遺髪はご神体とされ、容器に納められて本殿の奥深く奉蔵されている。 「この御遺髪は誠にみずみずしい黒髪であって、これを延べれば丈、まさに5尺余、神気こもり漂いて拝者をして神厳崇高な念慮にうたれざるをえない。あたかも眼前に神神にまみえまつり、3千年の古代と現代が直結して、神代人の血潮の鼓動が我が身に脈うち相い通じるの感じがひしひしと胸に迫る」と神社で解説している。地方氏族が祖先神を祀る氏神社の性格を伝承する神社である。 当社の最初の祝部であつた忌部栄満は、後に役の小角に帰依して僧となり、彼の創建した養老寺が別当寺として勢力を占め、明治初年の神仏分離の時まで当社を支配していた。 |
式内大社 洲崎神社 祭神 天比理乃当ス 当社は延喜式神名帳に「后神天比理乃当ス神社大 元名洲神」と記され、天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称した。 由緒 当社は宝暦3年(1753)の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃当スの奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まる。 鎌倉時代の治承4年(1180)安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。 室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えている。房総里見氏も当社を尊崇して、七代義弘が神領五石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下した。幕末の文化9年(1812)房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納している。 神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治6年(1873)県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えた。洲崎明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいる。 祭事 祭礼は2月の初午と8月20日・21日の例大祭があり、共に文化庁選択記録保存・県指定無形民俗文化財の洲崎踊り(鹿島踊りと弥勒踊り)が奉納される。八月の例大祭には勇壮な神輿の渡御や浜祈祷も行われる。 文化財その他 社宝である養老元年(717)万治2年(1659)宝暦3年の各縁起や御神体髪などのほか、江戸時代延宝年間の改築とされる神社本殿は、共に市指定有形文化財であり、神社の鎮座する御手洗山は洲崎神社自然林として県指定天然記念物となっている。また随身門は宝永年間の造営、矢大神・左大神像は明治3年の作とされている。 館山市文化財審議会会長 君塚文雄 社頭石碑 |
市指定有形文化財 洲崎神社本殿 昭和42年2月21日指定 洲崎神社の創建は神武元年と伝えられ、祭神は天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと)である。 平安時代の「延喜式」にも載る古社で、鎌倉時代には源頼朝が崇敬して、源家再興と戦勝を祈願し田地を寄進していることが「吾妻鏡」にみえる。戦国時代の初めには太田道灌が江戸城付近に当社の祭神を勧請しており、広く信仰されていた神社である。 本殿は三間社流れ造で三方に木口縁をめぐらし、銅板葺・千木勝男木を置き、唐様三手先組で外部は丹塗仕上げ、木鼻欄間等に彫刻が施されている。 装飾が多く、江戸中期の神社建築の特徴をもつ貴重な建物である。昭和61年に台風で土砂が流出し、本殿が倒壊したため修復が行われた。 社頭掲示板 |
県指定天然記念物 洲崎神社自然林 昭和47年9月29日指定 洲崎神社は古くより安房国の一の宮であり、境内御手洗山の西斜面は、神社鎮座以来氏子の信仰が厚く、絶対に斧を入れたことのない自然林といわれている。 ここの林はシイが上木として目立つ下半部と、ヒメユズリハが上木として目立つ上半部にわかれている。下半部は第一層にスタジイ、第二層にヤブニツケイ、ヤブツバキ、第三層はトベラ、イヌビワ、第四層はテイカカズラ、ヤブコウジ等がそれぞれ優占し、スタジイ極相林の形を保つている。 上半部では第一層の優占種がヒメユズリハであり、第二層以下もヒメユズリハ林の様相を示している。 秋の変遷段階は大まかにススキ草原→クロマツ林→ヒメユズリハ林→スタジイ林という移行を認めることができる。 館山市教育委員会 平成元年1月 社頭掲示板 |
県指定無形民俗文化財 洲崎神社自然林 洲崎踊り 昭和36年6月9日指定 毎年8月20〜22日の大祭3日間と、2月の初午のときに奉納される。むかしは大人(男)が踊ったというが、現在は小中学校の女生徒が踊る。 踊りには二種類あって、はじめに「みろく踊り」次に「鹿島踊り」を踊る。いずれも二人の音頭とりの唄と一人が打つ太鼓を中心にして廻りを輪になって踊る。 みろく踊りは右手に扇、左手に御幣をかつぎ手足をからませながら豊富な動きで踊るが、鹿島踊りは御幣を足下におき、右手に扇をもって動きの少ない動作で踊る。 二つの踊りとも、共に鹿島信仰を根底とした風流小歌踊系の芸能として、民俗的、芸能史的に貴重である。 昭和48年11月5日、文化庁より、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された。 館山市教育委員会 平成2年3月 社頭掲示板 |
洲崎神社 神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓され、忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃当スを祀ったのが当社です。平安時代の延喜式神名帳に式内大社后神天比理刀当ス神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。 鎌倉時代の治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参詣し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣使を派遣し妻政子の安産を祈願して、広大な神殿を当社に寄進されました。以降関東武士の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。 室町時代には、江戸城を築いた太田道灌は、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前進と伝えられており、東京湾をはさみ湾の西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎藤する神社があります。また、 成田市鎮座の熊野神社境内には、明和2年(1765)建立の「諸国六十六社」があり、四方に一宮の社名が彫られており、安房国一宮として当社の社名が彫られており、広く信仰されていたことがうかがわれます。 江戸時代後期の文化9年(1797)、房総の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主松平定信は当社に参詣し「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。 公式HP |
文化財 千葉県指定文化財 無形民俗文化財 洲崎踊り 弥勒踊りと鹿島踊りの2種類からなる。前者は悪霊払い、後者は念仏踊りの系譜にあたる。昭和36年6月9日指定。 天然記念物 洲崎神社自然林 洲崎神社の鎮座する御手洗山に残る自然林。神域として斧が入れられたことがないことから、自然林として保たれている。昭和47年9月29日指定。 館山市指定文化財 有形文化財 本殿 昭和42年2月21日指定。 洲崎大明神縁起 洲崎神社の3つの縁起、すなわち万治2年(1659年)の『房州安房郡洲崎大明神縁起』、宝暦3年(1753年)の『洲崎大明神由緒旧記』、年代不明の『洲崎大明神縁起』。 昭和45年8月26日指定。 有形民俗文化財 神体髪 祭神の天比理乃当スの遺髪とされる。古くから船中に女性の髪を祀る風習があり、それとの関係が指摘されている。昭和45年8月26日指定。 |
洲崎神社 同郡(安房郡)西岬村大字洲崎御手洗山に在り、境内四百七坪、祭神は洲宮神社と同神にして傳説亦同じ。明治6年4月教部省本社を以て延喜式載する所の大社と定む、比理乃盗_社の史に見えたるは承和9年10月にして始めて從五位下を授けられ仁壽元年8月從三位貞観元年正月7日正三位を加へらる。源ョ朝深く本社を崇敬し治承4年9月神田を寄す、壽永元年8月安西三郎をして本社に参向せしめ室政子の安産を祈る。後太田道灌の江戸城を築くや本社を江戸に勧請す、神田明神是なりと云ふ。里見氏の時社領五石を寄す、徳川氏の時亦之に仍る。文化9年松平定信社額を書して奉納す、現に神庫に蔵せり。明治6年5月30日縣社に列せらる。本社は古来海口にあるを以て舟人皆船神と爲し、社前を過ぐる毎に洗米を献ず、祠官毎に舟を出して之を受けしめ以て神饌に供するを例とす。祭日は8月21日、境内に末社五座あり、舊縁起二部今舊里正綿鍋氏の家に傳はる。(明治39年幣帛料供進指定) 稿本千葉縣史 |
后神天比理乃当ス神社 大元名洲崎神 后神は岐佐岐賀美、天は阿女と訓べし、比理乃唐ヘ假字也、○祭神明か也○洲之宮村に在す、(地名記)、今二宮洲崎明神と称す、例祭月日、 神位 続日本後紀、承和9年10月壬戌、奉授安房國无位第一后神天比理刀当ス神從五位下、文徳実録、仁壽2年8月丙辰安房國大比理刀当ス神特加從三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授安房國從三位天比乃理刀当ス神正三位、 社領 当代御未印高七石 雑事 扶桑見聞私記五云、治承4年8月29日、武衝令着安房國平群郡狸島云々、其夜当國洲崎明神ノ御宝前ニテ御念誦有テ「源ハ同ジナガレゾ石清水セキアゲテタベ雲ノ上迄、」此明神(八幡大菩薩ヲ奉祝、」同十云、治承5牟2月日、下須宮神官等可早令安房國須宮免除萬雑公事云云、可令兎除之状如件、仍在庁等宜承知勿遺失、 連胤按るに、当社は八幡宮を祝ひ祭るにはあらず、然るに、源は同じ流れなどよみ給へるをおもへば、所謂時勢に從ひてかくは沙汰したるなるべし、又永享記に、太田道灌江戸城を築れたるとき、安房の洲崎明神を勧請して、神田明神と齋ひたるよし見えたるも、同日の論なるべし。 神社覈録 |
縣社 洲崎神社 祭神 天比乃理刀当ス 相殿 天太玉命 天冨命 創建は神武天皇の御宇、天富命、其母太玉命妃天比乃理刀当スを祭ると、(〇大日本国誌)古來当国有数の神社たり、高倉天皇治承4年9月5日、源頼朝当社に参拝し祈る所あり、東鑑に云く、 「治承4年9月5日甲寅、武衛有御参洲崎明神、宝前凝丹祈給、所遣召之健士、悉令帰往者、可奉寄功田、賞神威由、被奉御願書云々、」 と、次いて同月12日神田を寄進せし由同書に見えたり、蓋、神威を敬虔せしに依りたるなり、翌5年2月10日、神領に対し在庁の官人等煩を成す由の訴あり、仍て停止の下知ありたり、同6年8月11日御台所の御産氣有り、安西三郎を奉幣御使として当社に参向せしめらる、当時の神領今詳かにする能はすと雖も、蓋甚少ならざもるものゝ如し、房総志料に、洲崎明神の社領、鎌倉の頃には、まさき村柾といふ所まで、十二箇村一千町、寄附の地たりと」と見えたり、太田道灌江戸城を築くに当り、当社を江戸に勧請す、今の神田明神是なりと云ふ、里見氏当国に主たるや社領五石を寄進し、寛永年中徳川家光神領に關して朱印状を寄す、其文に曰く、(〇社務文書) 「安房國洲崎大明神領、安房郡洲崎村之内五石、如先規令寄附之畢、社納彌不可有相違者也、仍如件、寛永13年11月9日朱印(〇徳川家光)」 と、光格天皇文化9年、松平定信社額を書して奉納す、其額今尚神庫に存せり、抑延喜式所載の后神天比理乃当ス神社は元名を洲崎神と称し、(〇延喜式一本作洲神)大社に列し、仁明天皇承和9年10月、無位より従五位下を授けられ(〇続日本後紀)文徳天皇仁壽2年8月從三位を加へられ、(〇文徳実録)清和天皇貞観元年正月、勲八等より正三位に昇らせらる、(〇三代実録)著名の神社なるが、当国洲神又は洲崎神と称するもの二り、共に天乃比理刀盗_を祭る、一は当社にして、一は洲宮神社とす、両社共に式社と称し、相執て譲らざりしが、明治6年4月14日当社を以て式内と定めらる、時の太政官日誌に云く、 「先般其管内安房國安房郡洲宮村洲宮神社ヲ、延喜式内后神社ト相定指令候処、猶詮議之筋有之、右者取消、更ニ同郡洲崎村鎭座洲崎社ヲ以テ、延喜式内后神天比乃理刀当ス神社ト相定候條、此段相達候事、 明治6年4月14日 教部省」 と、かく嚴逮せられたりしが尚未だ以て定説と認むる能はす、当社を一宮と称するに対し、洲宮神社を二宮と称するの点は、本末を指すものゝ如しと雖も、社領当社の五石なるに対し洲宮七石、当社明細帳「多年佛徒ノ奉祀トナリ、旧記并祭典故事等皆亡失シ、今二存スルモノナシ」と記すに反し、洲宮には数通の文書を蔵し、且つ安房神社神幸等の事あり、況んや、金丸家系当社を拝殿とし、洲宮を奥殿とするに於てをや、按するに洲宮洲崎は元と一社両殿たりしものなるべし、(尚洲宮を参照すべし)、同年5月30日、洲宮と共に縣社に列す、社殿は本殿、拝殿、其他廻廊等にして、境内は407坪、官有地第一種たり。 明治神社誌料 |