出雲建雄神社
いずもたけおじんじゃ


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【由緒】

「神宮旧記」(大和志料所引)に「若宮神殿一座 出雲建雄神、神名帳曰大和國山辺郡出雲建雄神社 飛鳥浄御原宮御字天皇 神主布留邑智(オフチ)夢 布留川上立騰八重雲 其雲中有神剣 放光華照六合之内 剣頭八龍并座 明旦到彼地見之 有霊石八箇 于時神託人曰 吾尾張氏女所祭神 而今天降於是 保皇孫守諸民 於是神宮前岡上立社祭之 曰出雲武尾神 亦曰天村雲神……其後有勅列官社」とある。「石上布留神宮略抄」(享保五年写)等の類書も大筋に変りはなく、天智七年の熱田社神剣の盗難・天武天皇朱鳥元年の天皇不豫と神剣の熱田社ヘの返還・其夜の出來事としての上記の説話を記す。又祭地への神剣の降下といふ異説を記したものもある。この神剣を素蓋鳴尊の帯剣=八岐大蛇(=八竜王)の神氣とする説と日本武尊の帯剣=天叢雲剣の神気とする説とが複合して、建雄社と八剣社(田井庄町)の縁起説話となつてゐる。明治2年の神祇官への報告には両説を結んで記してゐる。「式内社調査報告」


【国宝】

摂社 出雲建雄神社拝殿(せっしゃ いずもたけおじんじゃはいでん)[ 国 宝 ]
摂社 出雲建雄神社拝殿[国宝]元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113〜18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていましたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されています。
建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築により現在の構造・形式になったと考えられています。


【内山永久寺】

元来は興福寺大乗院末寺内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113〜18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離により明治9年に廃絶されました。鎮守の住吉社が残されましたが、本殿が明治23年に放火で焼失し、拝殿だけが荒廃したまま放置されていたのを、当宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。従ってこの建物は内山永久寺の遺構として貴重なものです。
構造は、桁行5間・梁間1間の一重の切妻造りで、屋根は檜皮葺です。中央の1間は「馬道(めどう)」と呼ぶ通路で、このような中央に通路を開く形式の拝殿を「割拝殿(わりはいでん)」といいます。馬道部分は柱上に三斗(みつと)を組み、梁上に透彫りの蟇股(かえるまた)を置き、正面背面とも唐破風(からはふ)をのせます。左右各2間は床板張り廻縁付きの室を設け、大面取角柱に舟肘木を組み、柱上に虹梁を渡し蟇股をおいて化粧棟木を支え、天井は疎垂木(まだらたるき)の化粧屋根裏としています。建具は両側面は板扉とし、そのほかは全て引違いの格子戸です。全体に非常に優雅で上品な住宅風の建物です。
建立時代については、はじめは保延3年(1137)に桁行3間の建物として建立され、13世紀中ごろに桁行5間に改築、正安2年(1300)に馬道を開いて前後に唐破風を設けたとk考えられます。






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