天太玉命神社
あめのふとたまのみことじんじゃ


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【忌部氏】

當社は齋部(いんべ)氏の祖天太玉命をまつる。記・紀によれば天太玉命は天孫降臨の際に、中臣氏の祖天児屋根命らと共に天皇氏に雇從して以來、両氏とも祭祀の事をもつて朝廷に奉仕したが、又宮殿造営の事にも當つてゐる。その後天太玉命の孫天富命は忌部郷の地に居住して、一族の宗家となり、齋部氏と称するに至つた。祖神をまつる神社が此処に造られた所以である。しかし星霜の間、典籍の具はるものもなく、中臣氏より出た藤原氏が、飛鳥白鳳時代以來政治上の実権を握るにしたがひ、次第にその勢力に圧せられる事となつた。しかし両者は本來職掌についても甲乙はなく、養老年間の神祇令にも「其祈年月次祭者、百官集神祇官、中臣宣祝詞、忌部班幣帛」と記されてゐるほどである。『國史辞典』によれば同氏の正史における初見は日本書紀大化元年(六四五)七月條で、忌部首子麻呂(おひとこまろ)が神幣を賦課するために美濃に派遣せられてゐる。壬申の乱に際しては忌部首子麻呂は將軍大伴吹負(ふけひ)に属して大和の古京を守り、天武天皇9年(680)には弟色弗(しこふち)と並んで連の姓をうけ、12年に宿禰の姓を賜はり、持統天皇即位の時には神璽の劔・鏡を奉じた。慶雲元年(740)子麻呂は伊勢奉幣使となつてゐる。その後中臣氏と共にまた伊勢奉幣使となつてゐるが、次第に中臣氏のために排除され、天平7年(735)、忌部宿禰虫名・鳥麻呂はこれを訴へて復活してゐるが、更に後にも圧追をうけ奉幣使から外されてゐる。これらの事情は齋部宿禰廣成の古語拾遣にも明記せられてゐる。忌部氏が齋部氏と改めたのは、神祇権大祐忌部宿禰高善の時、延暦22年(803)の事であることが『日本逸史』に見える。その後は漸々おとろへ、後醍醐天皇以後に至つては國史記録の上からは全く絶えてゐる。室町時代嘉吉の頃、齋部の姓をはなれて藤原氏に属したものらしく、興福寺官務帳に「太玉神、在高市郡忌部、供僧號蓮光寺、社司一人神人三人、祭所忌部連遠祖太玉尊」とあり、藤原氏が氏神春日社頭に繁榮を示したに反し、齋部氏の氏神當社はおとろヘ、反つて藤原氏を称し、社を春日社に擬する事とも成つたらしい。
式内社調査報告





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