往馬坐伊古麻都比古神社
いこまにますいこまつひこじんじゃ


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【祭神】

延喜式の二座が現今、七座となつている。『往馬坐伊古麻都比古神社の由緒記』に、「生駒山の自然を神とした信仰が、人格神信仰に変るにつれて、伊古麻都比古・伊古麻都比売の神としてまつられた。現在応神天皇、仲哀天皇と神功皇后、伊古麻都比古、姫神、氣長宿禰王神・葛城高額姫神であるが、元来の主神である伊古麻都比古、同姫神は、江戸中期に於ては全くその影を消し、之に代えるに牛頭天王と八王子を以てし、生駒八幡大菩薩と一般に称べたこともある。從つて応神・仲哀・神功皇后の三神が重んぜられて、神社の縁起さヘも誤つて伝えられて、明治の世になつて探究が進むにつれて伊古麻都比古と同姫神が歴史上正しい神であることが知られ復活して中央の正座に遷された。」とある。


【神宮寺】

江戸末期には「日大坊、日東坊在神祠傍 日安明寺在萩原村、日圓福寺在有里村、日宝憧寺在小平尾村、日岡坊、日大門坊 日中坊 日新坊在小倉寺村 日福田寺在西畑村、日西福寺在鬼取村」の11寺があった。
一時は社坊百院、知行十八万石と言われた。現存するのは、円福寺、宝憧寺、西福寺、中坊の四ケ寺で何れも真言宗である。


【火燧木(ヒキリギ)の神】

平安朝の書物である『北山抄』や『元要記』、『亀相記』等には「火燧木神」の記載が見られ、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神は古くから火の神としても尊ばれていた。我国最大の祭祀であり、歴代天皇の御即位の大祀である踐祚大嘗祭に用いられる火燧木は、代々往馬大社より献上したもので、今上陛下の大嘗祭にも、橿原神宮で行われた紀元2600年祭にも当社の火燧木が御使用された。このような歴史の元に、毎年10月10日11日の両日に執り行なわれる往馬大社の御例祭(火神祭)は壮大な火祭として、市内近郊はもとより遠方からも多数の参拝者があり、また古くから龍田大社の風神祭、廣瀬神社の水神祭と共に朝廷の深い信仰を受けてきた。
古くから火の神として崇敬され歴代の大嘗祭に用いられる火きり木(うわみず(みぞ)桜)を献上している。10月の例祭は壮大な火祭りとして、古来より“龍田の風神祭”、“広瀬の水神祭”ともに深い信仰を集めている


【文化財】

絹本著色生駒曼荼羅図 重要文化財(美術品) 鎌倉 
生駒曼荼羅 県指定文化財 1456年)
火祭り 生駒市無形民俗文化財


往馬大社

往馬大社の歴史はたいへん古く、創立年代は定かではありませんが、生駒谷十七郷の氏神としてこの地に鎮座し、奈良県内では大神神社や石上神宮と同様に神奈備(生駒山)を御神体として祀られた日本有数の古社であります。また、神社の境内を覆う鎮守の杜は奈良県の天然記念物に指定されており、太古から変わらぬ自然の森を今に守り伝えています。
神社で最も古い記述は『総国風土記』の雄略天皇三年(458年)で、この年を御鎮座と致しますと、去る平成二十一年に一千五百五十年を迎えました。また、正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関わりがありました。平安時代の『延喜式』(えんぎしき・九二七年)では、往馬坐伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社二座が官弊大に列せられ、その内一座は祈雨(あまごい)の弊も賜っていました。この時代、本殿は産土神の二座でありましたが、鎌倉時代に武家の守護神である八幡信仰が興隆し、当社でも五座の八幡神を合せ祀り現在の七座となりました。

公式HP



徃馬大社 御由緒書

徃馬大社は本来生駒山を御神体として祀られた古社であり、神社の境内を覆う鎮守の杜は奈良県の天然記念物に指定され、太古から変わらぬ自然の森を今に守り伝えています。
神社で最も古い記述は、「総邦風土記」の雄略3年84589で、この年を御鎮座と致しますと、平成21年に1550年を迎えます。また、正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関りがありました。平安時代の「延喜式」(927年)では官幣大社に列せられ、そのうち一座は祈雨の幣も賜っていました。当初神社の御祭神は二柱でございましたが中世に八幡神五柱を合祀して、本殿御祭神は現在の七柱となりました。
神社の宝物「生駒曼荼羅」(県指定文化財、室町時代)には七柱の神々と立派な社殿が描かれており、当時の隆盛を物語っております。 徃馬大社は古くから「火の神」としても崇敬篤く、歴代天皇の大嘗祭に関わる火きり木を当社より納めた歴史があり、昭和や平成の大嘗祭の「齋田点定の儀」にも御神木の上溝桜が使用されました。
このような歴史のもとで、毎年10月の体育の日の前日に執り行われる火祭りは、古式豊かな伝統行事として生駒市第一号の無形民俗文化財に指定されています。
平成19年1月吉日

社頭掲示板



往馬坐伊古麻都比古神社

いこまにいますいこまつひこじんじや
奈良県生駒市一分。旧県社。生駒谷一七郷の氏神で、往馬彦往馬姫を祀る。ほかに気長帯比売命・帯中日子尊・誉田別尊・葛城高額比売命・息長宿禰王尊を祭神とする。
往古、往馬大明神と称し、往馬大社ともいう。『大和志』などには神宮寺と称するもの11坊があったという。社記によれば、雄略天皇3年5月神田を奉り、天武天皇の時、悪疫流行し牛馬多く死んだので勅使を遣わして官幣を奉り白馬節会を行った。天平2年(730)神戸稲租230余束を祭料に充てられ(「東大寺正倉院文書」)、大同元年(806)神封三戸寄進(「新抄格勅符抄』)。貞観元年(859)往馬坐往馬都比古神に従五位下(「三代実録」)『延喜式』に二座並びに大社、祈年・月次・新嘗・案上官幣、一座に祈雨の幣に預かる。『北山抄』には、大嘗祭に謄駒社の神部をして火鑽木を奉らせる、とある。卜部氏はこの神を祀って亀と火燧木神といった。例祭10月11日。大たいまつによる火祭りがある。

神社辞典



郷社 往馬坐伊古麻都比古神社

祭神 息長足姫命 誉田別命 息長宿禰命 葛城高額姫命
伊古麻都比古神 伊古麻都比売神 足仲彦命
本社創立の年代詳かならざれども、往古より往馬大明神と称し、生駒谷十七郷の氏神にして、往馬彦往馬姫を祭り、其神宮寺と称するもの凡十一坊ありしといふ(大和志、神名帳考証、大和名所図絵)社記によれば、雄略天皇3年5月始めて神田を奉り、式祭を行ひ、天武天皇御宇悪疫流行し、牛馬多く斃死せるによりて、勅使を遣はし官幣を奉り、次いで白馬節曾を行ひ、爾後毎年例祭には勅使の参向ありきといふ。
聖武天皇天平2年神戸稻租二百三十余束を祭料及雑用に充てられ(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封三戸を寄進し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下往馬坐伊古麻都比古神に從五位上を授け奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制二座並に大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣に預り、其一座は又祈雨の幣に預る(延喜式)凡大嘗祭謄駒社の神部をして火鑽木を奉らしむ(北山抄)又ト部氏此神を祭りて亀と火燧木神といへり(神名帳頭注参考ト部亀卜次第)白河天皇承保3年之を改造せられ、以來二十一年毎に修造することとせり(伝説)祭神に關して考証に「考前後所載之神名往馬坐神三座、蓋伊弉諾尊伊弉冉尊也」とあるは例の臆説也、こは限りある大山なれば、伊古麻邊比古と称へし神も座すべし、諾冉の二尊には有べからすと覈録には難じたり、而して現今の社殿は、明治7年焼失の後同10年の造営にかかれり、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿、南拝所、北拝所、御旅所、神饌所、祝詞所等の建物あり、境内10098坪(官有地保安林)、境外14483坪あり、生駒宝山寺の麓生駒川の河畔に位し、樹木鬱蒼として繁茂し、幽邃閑雅実に千古の面影を存せる神境たり。
宝物には十一面観世音菩薩、生駒宮憂茶羅図、生駒八宮縁起、生駒大明神縁起等あり。

明治神社誌料



往馬坐伊古麻都比古神社二座 並大月次新嘗

往馬は伊古麻と訓べし、伊古麻都比古は假字也、○祭神明か也、一座は姫神歟、○生駒谷一分村に在す、(大和志、同名所図会)○式三(臨時祭)祈雨祭神八十五座、(並大)云々、膽駒社一座、
考証云、考前後所戴之神名、往馬坐神二座、蓋伊弉諾尊伊弉册尊也、とあるは例の臆説也、
こは限りある大山なれば、伊古麻都比古と称しし神も坐すべし、諾册の二尊には有べからず、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從五位下伊古麻都比古神從五位上、
雑事
北山抄(大嘗会條)云、召火鎮木事(二具、仰大和國膽駒社神主

神社覈録






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