岡田国神社
おかだくにじんじゃ


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【旧社殿】

現代の社殿の下(北)に隣接して、旧社殿、拝殿、能舞台、氏子詰所(仮屋、宮座)がそのまま保存されており、京都府登録文化財(1988)に指定されている。
 このように、舞台を中心として、社殿が配置された相楽郡地域に伝わる形態は、室町時代の惣(そう)の社の姿を残している。現存するものとしては数少ない例という。
 惣は惣村ともいわれ、百姓の自治的・地縁的な組織、村落形態をいう。畿内に生まれ、最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)で、次第に自治的な力を増していった。
 石垣の上に透塀(すかしべい)があり、本殿、摂社、小社が祀られている。本殿は江戸時代、1774年に建立され、一間社春日造になっている。奈良には多いものの、京都府内で、同時期、同規模の社殿建立は稀という。
 広場東の拝殿は、江戸時代、1620年建立で、切妻造、本瓦葺、桁行5間、梁行2間。
 能舞台をはさんで、南北に氏子詰所(仮屋)2棟が配置されている。近代、1907年に改築された。舞台は1910年の改築で、方一間切妻造、桟瓦葺。
http://everkyoto.web.fc2.com/report671.html


【文化財】

岡田国神社 社殿 京都府登録文化財
神社の森 京都府文化財環境保全地区


岡田國神社 大月次新嘗

岡田は前に同じ、』國は久爾と訓べし、」万葉集十七、山背乃久爾能美夜古波、云々、○祭神詳ならず○大野村に在す、今春日と称す、(山城志)
類社
和泉国大島郡、備前國御野郡国神、各一座
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下岡田國神從五位上
雑事
続日本紀、天平12年12月戊午、右大臣橘宿禰諸兄、経山背國相樂郡恭仁郷、以擬遷都故也、丁卯、皇帝幸恭仁宮、始作京都矣、

神社覈録



郷社 岡田國神社

本社創建は齊明天皇御宇5年9月に在り、元禄10年勘定奉行より、社領黒印高二十四石六斗、此反別三町二反三畝十一歩の下附状航あり、朋治6年郷社に列し、尋いで11年5月式内社と確定す、社殿は左右二殿にして春日造、其他拝殿、能舞台、氏子詰所、土蔵等を備へ、境内4373坪、(官有地第一種)を有し、加世山の麓に在り、「山並之宜国、川次之立合里跡、山代乃鹿脊山際爾、宮柱太敷立弖云々、」又「乙女等賀、続麻繁云鹿脊山、時乃往者都止成奴」など、続紀萬葉に見えたる地にして、泉河の清流を望み。風景絶佳なり、神体は木像、宝物には石劔、狛犬等あり、神社覈録に「祭神詳ならず、大野村に在す、今春日と称す(山城志)」とあり、神祇志料には「今木津村にあり、天神社蓋是也(式社考証)、清和天皇貞観元年正月甲申從五位下岡田国神を從五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗祈年案上の幣帛に預る(延喜式)」と見え、又神名帳考証に「岡田国神社(大月次新嘗)今在笠置河辺、称國根明神、天津彦根命云々」とありて、共に本社の事を叙せるなり、尚大日本地名辞書に曰く「岡田国神社は木津町の東南に在り、天神と称す、三代実録、貞観元年岡田国神叙位延喜式大社に列す、蓋山背氏の祖神を祭る、其山背氏に天孫なると天神なるとの二流あれど、此は天孫にて山背河を領知せる家歟、即久世郡水主の山背大國魂神是なるべし、山背久我直と相異なり、神祇志料云、古風土記に岡田之加茂と云を見れば、岡田は此地の総名にして、近世大野村(今加茂村に属す)春日社は岡田國神と云へど、大野は古家加茂郷の地にして久仁郷にあらす、國は久仁にて恭仁京の地なれば、今木津駅にある者即本社なり」と記せり。

明治神社志料



岡田国神社

岡田鴨神社とならんで『延喜式』にみえる岡田国神社は、やはり大社で、月次祭・新嘗祭のときの幣帛をうけることになっていた。また、貞観元年正月に、従五位下から従五位上に上げられている点も、岡田鴨神社と同じである。このように、岡田鴨神社と岡田国神社は、同等のあつかいをうける神社として、存在していたと考えられる。なお、『日本三代実録」には岡田園神社とあるが、この神はほかにみえない。おそらく岡田国神社の誤りであろう。
第四章第一節で述べたように、「岡田」とは、加茂町の平地部全体を指す地名で、そのうち、木津川の北側が、初め恭仁郷と呼ばれていたが、恭仁遷都後は岡田郷に変わり、南側は、一貫して賀茂郷であった。岡田国神社と岡田鴨神社は、「岡田」の中の恭仁郷と賀茂郷にちなむ名称であったと考えられる。したがって、これによると、岡田国神社は、初め木津川の北側にあったのではなかろうか。
『山城国風土記』逸文(天理図書館所蔵神名帳裏書)では、この神社を、相楽郡内の久江里にあるとしている。「久江里」という里は、ほかにみえないから、これは久仁里の誤りではなかろうか。これによると、これは岡田国神社が恭仁郷にあったことを示す史料となしうるかもしれない。
両社の所在地を恭仁・賀茂の二郷にあてる考え方は、はやく「特選神名牒」にみえる。同書は、「続日本紀」和銅元年9月庚辰(22日)条の、岡田離宮への行幸に伴なって、賀茂・久仁二里の人ぴとに稲をあたえた記事を挙げ、「鴨国の両社は件の二里にあること必せり」と述べている。この説は、的を射ている。しかし、同書は、久仁郷を木津駅付近に比定しているため、岡田国神社を木津川の北側の加茂町平地部に想定していない。
岡田国神社の比定については、二説がある。一つは加茂町大字大野小字大野の勝手神社境内の春日神社に当るもの、もう一つは、木津町大字木津小字大谷の天神社とするものである。
前者は、『山城志」〔享保19年、1734年成立)にみえるものが古い。また、『山城相楽郡誌』には、同社は、もと木津川南岸の大字大野小字一町久保にあったが、木津川の浸食によって、勝手神社境内に移され、国神社仮借(いそろ)社と称された、とある。後者の説は、明治になってから政府によって採用され、現在は天神社を岡田国神社と称している。

木津町史



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