水度神社
みとじんじゃ


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【由緒】

城陽町史には「水度とは水処、すなわち水の侵しやすい処をいったものであるから、当社は水防の神として、または農耕の守護神として創祀されたものであろう。されば、かかる山の中腹にあって水とは一向縁のないのが訝しいが、これは別の処に祀られていたのを後世この地に遷したものであろう」と記している。
当社はいま、鴻の巣山(標高118mから西へ延びる峰々の西端中腹に鎮座するが、由来記には「旧地は、境内領東に往古鴻が巣を結んだという鴻の巣山の、その峰つづきにあたる大~宮山(ダイジヤマ)にあったと伝う。現在の地へは鎌倉時代の文永5年(1268)に旧地より遷し奉り今日に及ぶ」と記されている。
旧地は当社の東約700mにある鴻の巣山から西へのびる峰々の何処かであろう。


【文化財】

水度神社本殿 重要文化財(建造物) 文安5年(1448) 一間社流造、正面千鳥破風付、檜皮葺
おかげ踊り図絵馬 京都府登録文化財 江戸時代、1830年11月1日に寺田村北東町の人々が奉納したもので、おかげ踊り(お陰踊り)の様子が描かれている。
鉄湯釜 城陽市指定文化財 湯立神事に使われていた応永32年(1425)に造られた。
大般若経 城陽市指定文化財 鎌倉時代前期の書写経


府社 水度神社

神社覈録に「水度神社、寺田村に在す、今天神と称す(山城志)云々」神祇志料に、「水度神三坐、今久世の西南三田坂の東寺田村にあり(神名帳考、山城式社考)天照高彌牟須比命和多都彌神豊玉比売命を祀る、之を祇社とす(釈日本紀、山城風土記)豊玉比売命は海神豊玉彦の女にして、天津日高の子穂々手見命の大后也(日本書紀古事記)清和天皇貞観元年正月甲申正六位上水度神に従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制三座並に祈年祭に鍬靭を奉らしめ給ひき(延喜式)云々」と見ゆ、本社は創建年代詳かならす、山城風土紀に云ふ「久世郡水度社、祇社、名天照高彌牟須比命、和田都彌豊玉比売命」而して此の二座は共に天神なるに、此に祇社とあるは、蓋し本社の主神は豊玉姫命なるを以て斯く云へるならん、又三代実録に、「貞観元年正月27日、奉授正六位上水度神従五位下」とあり、明治6年6月村社に列し、同10年6月式内社となり、尋いで15年3月郷社に列し、同40年7月府社に昇格す、社殿は本殿、拝殿、社務所、集会所、絵馬舎、四脚門等を備へ、境内5549坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



水度神社

水度神社 みとじんじゃ
京都府城陽市寺田。
旧府社。延喜式内社。天照大神・高皇産霊神・少童豊玉姫命を祀る。貞観元年(859)に従五位上に進む。また『山城国風土記』逸文にもその名がある。本殿(一間社流造、正面千鳥破風付・檜皮葺)は重文で室町期文安5年(1448)の造立。また、板絵着色の「お蔭踊図」(絵馬)一面は、太神宮の幟を中心に踊り狂う伊勢お蔭踊の様子を描き、江戸時代の実態を伝える貴重な資料である。

神社辞典



水渡神社三座、鍬靱

水度は美止と訓べし○祭神天照高御魂、海神、豊玉姫命、(釈日本紀)○寺田村に在す、今天神と称す(山城志)○釈日本紀云、山城風土記云、久世郡水渡社、(祇社)名天照高彌牟須比命、和多都彌、農玉比売命、先師案云、神名帳三座也、風土記、天照高御魂海神豊玉姫命三神、尤有由緒者也、
連胤按るに、姓氏録、(山城国神別)三富部、火明命之後也とある三富氏の祖火明命に故ありて、高御魂、豊玉姫を合祀りたるにはあらぬか、釈日本紀に先師案とて挙たる説の、三神句読明かならずといへども、天照といへるが火明命、高御魂といへるは高皇産霊尊、海神豊玉姫命にて、一座か聞わくべし、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正六位上水度神從五位下、

神社覈録



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