片山御子神社[賀茂別雷神境内摂社]
かたやまみこじんじゃ                  .


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【祭神】

現在の祭神は玉依比売命である。しかし異説が多い。
大己貴命賀茂別雷神社所藏『尊號諸家之説』
事代主命(御子の神社ということで明治から昭和33年まで)
祭神詳ならず『神社覈録』
別雷神の御子神『特選神名牒』
玉依彦命『神名帳考証』
以上の諸説に対し座田司氏は、片山御子神社の「御子」は「神の御子」ではなく「巫女」(ミカンコ)の意で祭神は最高巫女の神格化せられた神とみなければならないとし、祭神を玉依比売命とする。古くは玉依日売命が鶴ケ丘の片ほとりに庵を結んで専ら賀茂神に奉仕していたのであり、それが祀られるに至つたと考える。この片山の御子神が神山以來の別雷神に仕えた巫女神であつたことを物語つている。


【祭祀】

本社で恒例の祭儀が行はれるさい、その祭儀に先立つて必ずここで祭が行はれる。
本宮の祭典に当つては神饒を献し終つて祝詞の奏上にうつるのは、古今を通じて同様であるが、その祝詞の以前に本宮の献饌を終つて直ちに第二席の神職(維新前には片岡社の禰宜と祝との二員)が片岡社に参向して祭祀を行うのである。その祭祀中、片岡社に対する祝詞が終るや、神人(維新までは社務の預役)が「片岡社の土まつり」という詞を申すのである。本宮ではその詞を聞いて後、本宮に祝詞を奏上する例となつている。『賀茂社祭神考』


【紫式部】

片山御子神社は「縁結びの神様」としても古来から有名で、紫式部が何度もお参りしたことでも知られています。紫式部は、片岡社にちなんでこんな和歌を詠んでいます。
   ほととぎす 声まつほどは 片岡の
     もりのしづくに 立ちやぬれまし
           (新古今和歌集:第三巻 夏歌)
「和歌の意味」
ホトトギス(将来の結婚相手の声)を待ちわびる間、片岡社の木の下に立ち、 朝露に濡れていましょう。



紫式部と片岡社

『源氏物語』の作者である紫式部が当神社に参拝祈願された際に左記の和歌を詠まれました。
賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほとゝぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、片岡の梢あかしく見え侍ければ
 ほととぎす 声まつほどは 片岡の
  もりのしづくに 立ちやぬれまし
 (『新古今和歌集』巻第三 夏歌)
【通釈】
ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、
 この片岡の杜の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう
 ※ホトトギスと共に片岡の杜もまた素晴らしいという意味
紫式部作の『源氏物語』は世界最古の長編小説で、『紫式部日記』の寛弘5年(1008)11月1日の条に、既に宮中で読まれていた記述が有ります、日本が世界に誇る価値と魅力を有する『源氏物語』や、その物語に記載されている賀茂社への篤き信仰、そして日本の文化の素晴らしさをご理解を頂ければ幸甚に存じます。
◎京都北ライオンズクラブ様より奉納頂いた右の和歌の歌碑が、南側にある「岩上」の隣・灯篭脇にございます。

社頭掲示板



片山御子神社 (大月次相嘗新嘗)

片山御子は加多夜麻美古と訓べし〇祭神詳ならず○上賀茂村別雷社の前に在す、今片岡社と称す、(山城志)○式二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、(並大)云々、片山社一座、○別雷社の摂社也
考証云、千載集、(神祇)賀茂政平、「さりともと頼みぞかくる木綿手繦吾片岡の神と思へば、」按称吾片岡神者、可知賀茂縣主祖神玉依彦命也とは、推量の説と云べし、こは詞書に、片岡の祝にて侍るを、おなじ社の禰宜にわたらんと申ける頃、よみて書付けるとありて、ただ転職の歓びに読る也、」新千戴集、(神祇)賀茂教久、「年を経ておひそふ松の数々にわが神山の影ぞさかゆく」と読るも同じ事にて、其所にて其所をいふには、吾某といふが常也、甚しきは吾日本とさへいふにあらずや、是を以て賀茂氏の祖神を祭るとはいはれぬ事也、
神位 官社
文徳実録、齊衡2年5月戊辰、以山城國片山神列於官社、兼預相嘗祀、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下片山神從五位上、百練抄、寛仁元年12月朔日乙丑、授片岡神正二位、依行幸之賞也、(野府記の文川合社の下に見ゆ)別雷社神庫所蔵、(口宣案)天正19年6月11日、片岡社奉投正一位々記、(上卿中山大納言、職事蔵人左中弁藤原宣繁、

神社覈録






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