賀茂別雷神社
かもわけいかづちじんじゃ


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【祭神】

祭神について古來よりほぼ異論はないが
(中)正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・(左)高皇産霊尊・(右)武祇命・(後)事代主命『賀茂深秘奏』
火瓊々杵尊『富宮深秘書』、賀茂建角身『神社啓蒙』『山城志』『賀茂宮記』、味銀高彦根神または地主『山城名勝志』『延喜式祝詞講義』


【岩上】

橋殿の背後(北側)、御物忌川との間の山裾に、大きな岩石がある。
『岩上 賀茂祭(葵祭)には宮司この岩の上に蹲踞、勅使と対面し、御祭文に対して神の御意志を伝える“返祝詞”(カエシノリト・橋殿で奏上された天皇からの祈祷を、神が受納したという返辞)を申す神聖な場所である。
 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(コウヤマ)は本殿の後方約2kmの処にあり、頂には降臨石を拝し、山麓には御阿礼所(ミアレショ)を設け、厳粛な祭礼が斎行された。  この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を伝える場所である。神と人との心の通路でもあり、“気”の集中する場所である。』(掲示板)
賀茂別雷神社は平安遷都以前には、この影向石の上に祀られていたと思われ、その後現在の位置に壮麗な神殿が営まれた。


【神山】

神奈備山(神体山)である神山(こうやま)は、上賀茂神社の北、さらに2qほどのところにある標高301mの小山。山頂はカモのカミの磐座(いわくら)で、巨岩が環状に並ぶ「垂跡石」(すいじゃく)があり、禁足地となっている。5月12日の夜、御阿礼(みあれ)神事が行われ、御休間木(おやすまぎ)に神山から神霊を迎え、本殿のご神体に神威をこめるために行われる。現在は社に近い丸山(153m)で行なわれている。


【葵祭】

沿 革
賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、5月15日に行われる。古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさすほど有名であった。
この祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されているということである。
賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。使用される葵はフタバアオイで、毎年両神社から御所に納められている。
祭の起源と沿革は、今から約1400年前の欽明天皇(在位539〜571)の頃に、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、卜部伊吉若日子を勅使として、4月の中酉の日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。
また、819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行うという、国家的行事になった。
なお、応仁の乱(1467−77)ののち、1693年(元禄6)まで約200年の間、1871年(明治4)から1883年(明治16)まで、1943年(昭和18)から1952年(昭和27)まで、中断や行列の中止があった。しかし王朝の伝統は忠実に守られてきた。
https://www.kyokanko.or.jp/aoi/enkaku.html


【御阿礼神事】

御阿礼神事(みあれじんじ)とは賀茂祭に先立つ5月12日夜に斎行される、当神社祭儀中最も古く且つ重儀の神事。
秘儀として一般の奉拝は許されていない。
毎年,古くは旧暦4月の中の午の日,現在は5月12日の夜,京都市北区の賀茂別雷(上賀茂)神社で行われる,古来の神迎えの神事。御阿礼祭ともいう。〈みあれ〉は出現・誕生を意味する。神社の北西約880mの御生野(みあれの)という所に祭場を設け,ここで割幣をつけた榊に神を移す神事を行い,これを本社に迎える祭りである。祭場には,720cm四方を松,檜,賢木(さかき)などの常緑樹で囲んだ,特殊の神籬(ひもろぎ)を設け,その前には円錐形の立砂一対を盛る。
参考HP→http://www.geocities.jp/yamauo1945/kagen.html


【賀茂斎院の制】

宮中では古来神への崇敬の念を表す行為の一つとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例がありま した。この皇女は「斎王」と称し祭事に御奉仕されました。その例は初め伊勢の神宮に、次いで賀茂の大神に奉られただけであります。 如何に賀茂の大神への御崇敬の念が厚かったかが偲ばれます。
賀茂に於いては弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願により、伊勢に倣って第8皇女有智子(うちこ)内親王を奉られたのが賀茂斎院の制の始めであります。此を定められた事により伊勢を「斎宮」、賀茂を「斎院」として区別されるようになりました。
斎院は「さいいん」又は「いつきのみや」とも云い、嵯峨天皇爾後ご即位の度卜定(ぼくじょう)され、天皇陛下が譲位・崩御された際退下(たいげ・斎王をやめる事)するのが習わしとされました。但、第16代選子内親王は5代・57年間勤められる等、伊勢の斎宮のように必ずしも代替り毎に交代されていた訳ではなかったようであります。
斎王が卜定されると参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされ、賀茂両社に事の由を奉告されます。次に御所内の一所を卜(ぼく)して初斎院(しょさいいん)と云われる居所を設けられ、3年間日々潔斎し毎月朔日(ついたち)には賀茂の大神を遥拝する生活を送られました。
3年を経て4月上旬(旧暦)吉日に野宮(ののみや・愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院(むらさきのいん)」ともいわれました)の院に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許されました。
この院は、現在の京都市上京区大宮通盧山寺西北社横町の「櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)」あたりの一画(約150m四方)にあったと推定され、内院と外院からなる二重構造で、内院には斎王の寝殿や賀茂両社の神を祀る神殿等があり、外院には事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えておりました。
往時賀茂祭当日斎王は御所車にて院を出御され、勅使以下諸役の行列と一条大路にて合流、東行し先ず下社へ次いで上社へ参向、上社にては本殿右座に着座され祭儀が執り行われました。その夜は上社御阿礼所(みあれしょ)前の神館(こうだて)に宿泊され翌日野宮へ戻られました。
後、宮中では使いらを召され宴を賜い禄を下されますが、斎院に於いても同様の「還立(かえりだち)の儀」が行われていました。
連綿と奉仕せられてきた斎院ではありましたが、鎌倉時代初期の土御門天皇の御代に卜定された、後鳥羽天皇の第11皇女禮子(いやこ)内親王を最後に絶えて再び置かれることはありませんでした。よって賀茂に斎院の置かれた期間は弘仁元年(810)から建暦2年(1212)の凡そ400年間で、35代に及びました。
時を経て昭和31年(1956)関係者の後援を受け、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が往時の如く復興されました。
それに伴い、往時賀茂祭の当日に先立つ午又は未の日に紫野の院より賀茂川の河原に赴かれて行われた「御禊(ぎょけい)」も復興することとなり、現在は5月上旬に賀茂両社が毎年交互に斎行する例となりました。
http://kamigamojinja.jp/kamo/index.html


賀茂別雷神社

賀茂別雷神社 かもわけいかずちのじんじや
京都市北区上賀茂本山町。旧官幣大社(現、別表神社)。
祭神は別雷神で、賀茂御祖神社の祭神玉依姫命の子、建角身命の孫神にあたる。社伝によれば、神武天皇の代に賀茂山の麓の「御阿礼(みあれ)所」に降臨になり、欽明天皇28年には山城国をして祭りを行わしめたとし、天武天皇白鳳6年(678)に社殿が現在地に造営されという。奈良朝以前より神威高く、文武天皇2年(698)、太宝2年(702)には賀茂の祭に会集の徒が騎射するのを禁じている。元明天皇和銅4年(711)より国司が山城使(やましろづかい)として参向、聖徳天皇神亀3年(716)7月初めて官幣が奉られた。光仁天皇宝亀11年(780)には鴨禰宜に賀茂県主の賜姓があり、本社と御祖神社は一体としてほぼ同じ経過をたどって現在に至っているが、付記すれば宇多天皇寛平元年(889)初めて賀茂臨時祭が、白河天皇承保3年(1076)より4月中申日の御阿礼の日を賀茂行幸の式日とされ、後鳥羽上皇・亀山上皇などしばしば参籠があった。また承久の変では上・下社ともに上皇方について戦っている。建武年間には賀茂伝奏が置かれた。神領(荘園)は下鴨よりも多く、荘園制の崩壊に伴って2100余石(下鴨540余石)が寄せられた。また東山天皇宝永5年(1708)の内裏炎上により本社を御所として三種の神器が奉安されたことなどがあり、幕末の文久3年(1863)3月には後醍醐天皇以来絶えていた行幸に将軍家茂ら文武百宮が供奉し攘夷祈願があった。明治天皇は慶応4年(1868)に王政復古の御奉告行幸、明治2年(1869)、10年にも行幸された。同4年に下鴨とともに官幣大社。本社の摂末社は片山御子・賀茂山口・大田・須波・久我の各社が式内社のほか24社をかぞえる。
祀職は下鴨と同じく賀茂一族がつかさどり、下鴨の鴨姓に対して賀茂姓を称した。
主な社家に梅辻・岡木・烏居大路・西池・藤木・松下・山本らの諸家があり、神主一、正権禰宜二、祝一の四名、社司16人、氏人140人からなり、神主は正三位まで昇ることができ、明治4年の社家制廃止まで続いた。
例祭は5月15日で有名な葵祭であるが、昭和18年に戦争激化のため路頭の儀が中止、28年に復興。31年には斎王代を中心の女人列が復興されて、祇園祭(八坂)・時代祭(平安)とともに京都の三大祭の一つとして一大盛儀がくり広げられる。このほか5月12日には御阿礼神事が神の降臨を仰ぐ秘儀として斎行されるほか、5月5日の競馬会、夏越祓(6月30日)、鳥相撲(9月9日)など数多い。
建造物のうち本殿・権殿が国宝(文久3年(1863)のほか細殿・橋殿など多数が重文。摂社大田神社の大田沢(かきつばた)が天然記念物。文書関係に今井似閑奉納の約1200冊(三手文庫)が有名。旧社家所蔵の文書類は特に貴重であり、財団組織がある。

神社辞典



賀茂別雷神社 亦名若雷、名神大月次相嘗新嘗

賀茂は仮字也、和名抄、(郷名部)賀茂、』別雷は和氣伊加豆智と訓べし○祭神可茂別雷神(風土記〇頭注云、八咫烏、高皇産霊尊之苗裔也、○一説に、瓊々杵尊、又は饒速日命といふ、今從はす、)○上賀茂村に在す(山城志)○亦名若雷の四字は後人加筆なるべし(古事記に、左手者若雷居云々、并八雷神成居とある若雷とは、同名異神也、爰は別名の伝へのありしを、記せるのみ也、もとより加と気は音通へば、畢竟同じ事也、されど本朝月令に引たる、加茂旧記若雷神の天に登らしゝを云々とあるをみれば、昔は常に若雷と称しゝにもやあらん、)○式二(四時祭下)相嘗祭七十一座、鴨別雷社一座、』同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、仙城國賀茂別雷神社一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)賀茂別雷社一座、○当國一宮也、(一宮記云、号上社大山咋神也、■別雷母玉依姫、武角身命と云り、されど別雷神は大山由咋神には非ず、大山咋神は所謂丹塗矢の霊にて、別雷神の父神なる事、風土記の文にて明か也、はた他書にみゆる事なければ從ひ難しと云べし)○江家次第、祈年穀奉幣、賀茂上下(参議一人、次官五位一人、」)廿二社注式云、上七社、賀茂(幣数二本)○拾芥抄云、三十番神、賀茂(十二日)○廿一社記云、今下上二社在之、下ハ鴨ノ御祖、上賀茂ノ別雷ト號、(鴨賀茂音通歟、今下上各別ニ用也、)雖為鴨賀茂各別、以賀茂、為本、下上ト云事ハ、依御祖儀歟、云々、(廿二社本縁同)〇釈日本紀云、山城風土記云、可茂社、称可茂者、日向曽之峯(袖中抄、作曽之高千穂峯)天降坐神、賀茂建角身命也、神倭磐余比古之御前立座(抄作上坐)而、宿座大倭葛木山之峯、自彼漸遷、至(抄作至給)山城國岡田之賀茂、随山代河下坐、(抄作下坐坐)葛野河與賀茂河所曾至(一本作立)坐、廻見賀茂川而言、雖狭少然石川清川在、仍名曰石川瀬見小川、自彼川上座、定座久我國之北山基、從爾時名曰賀茂、」頭注云、同風士記云、賀茂建角身命、娶丹波神野(抄無神野二字)神伊賀古夜日女、生子名曰玉依日子、次曰玉依姫、玉依姫於石川瀬見小川之邊為遊時、丹塗矢自川上流下、乃取挿置床邊、遂孕(抄作遂■孕)生男子、至成人時、外祖父建角身命、造八■屋、(一本作殿)竪八戸扉、醸八腹酒而、神集々而、七日七夜楽遊、然與子語言、汝父(抄作與汝父)将思人令飲此酒、即挙酒杯向天為祭、分穿屋甍而升於天、乃因外祖父之名、號可茂別雷命(抄作神)所謂丹塗矢者、乙訓社(抄作郡)坐火雷命、」本朝文集云、(色葉字類抄引用)御祖多久須玉依媛命、始遊川上時、有美箭流来、依身即取之挿床下、夜化美男相副、既知任身、遂生男子、不知其父云々、吾天神御子乃上天也、干時御祖神当恋慕哀夜夢、天御子云々、造葵楓鰻巌箭待之、山本坐天神御子孫称別雷神、
類社
山城國相樂郡岡田鴨神社、(大月次新嘗)摂津国島下郡三島鴨神社、河内國高安郡、摂津國河辺郡、伊勢國渡会郡、同国員弁郡、備前國津高郡、同國児島郡、阿波國美馬郡、讃岐國阿野郡鴨神社、(各一座)備前国赤坂郡鴨神社三座、(巳上鴨の字を用ふる分)上野國山田郡、加賀國加賀郡、淡路國津名郡、土佐國幡多郡賀茂神社、(各一座〇巳上賀茂の字を用ふる分)伊勢國員辮郡賀毛神社、伊豆國賀茂郡加毛神社二座、美濃國安八郡加毛神社、
連胤云、前件の数社、或は鴨、賀茂、賀毛、加毛と書る、皆假字なるベし、さて其本縁詳ならざるが多しといへども、暫く集め置くこと、乙訓郡火雷神社の條に准ず、
四至
類聚三代格、承和11年12月20日、太政官符、応令神戸百姓護鴨上下大神宮辺川原並野事、四至、御組社、(東限寺田南限故参議左近衛大将大中臣朝臣諸魚宅北路末、西限百姓宅地并公田、北限槐材下里南■井寺)別雷社(東限路并百姓宅地、南限道并百姓宅地公田、西限鴨川、北限梅原山)右得山城國解称、依太政官去11月4日符、仰愛宕郡司令禁獲件社辺河、而郡司解称、郡中揺丁数少、無人差充、望請似在此郡神戸百姓、分番令禁守、若致汗穢、永出神戸、以公戸民相替補入者、國加覆審、所陳有實、謹請官裁者、左大臣宣、依請、
造営 修理
廿二社注式云、天武天皇白鳳6年丁丑2月丙子、令山背国営賀茂宮云々、続日本紀、延暦3年11月乙丑、遣使修理賀茂下上二社、(こは長岡宮に遷都の時也)
神位
続日本紀、延暦3年11月丁巳、遣近衛中将正四位上紀朝臣船守、叙賀茂下上二社從二位、以遷都也、(こは長岡宮に遷る時也)日本紀略、延暦13年10月丁卯、鴨神加階、以遷都也、(こは平安京に遷る時也)大同2年5月戊子、賀茂別雷神奉授正一位、
官幣 神宝
続日本紀」延暦3年6月壬子、遣参議近衛中將正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社奉幣、以告遷都之由焉、』三代実録、貞観12年11月17日乙丑、分遣使者諸社、奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、賀茂御祖別雷両社使前安芸介從五位下大中臣朝臣是直、同14年12月23日癸巳、今春已後、内外頻見怪異、由是分遣使者諸神社、奉幣、以参議民部卿正四位下兼行春宮大夫南淵朝臣年名、為賀茂両社使、」元慶4年2月5日己丑、遣正四位下行右京大夫兼山城権守基棟王、向於賀茂御祖別雷両社奉幣、告以大極殿成、
齋院
諸神紀云、齋院、弘仁元年卜定始之、有智子内親王、(嵯峨天皇御女)嘉陽門院礼子内親王、(後鳥羽院皇女)元久元年卜定以後断絶、」日本紀略、弘仁9年5月乙巳、始置齋院司、云々、齋院記云、嵯峨天皇與平城天皇昆弟之情不睦、故為祈願特設齋院、使皇女有智侍焉、
社職 把笏
続日本紀、天応元年3月戊申、令賀茂神二社禰宜祝等始杷笏、」文徳実録、仁寿元年4月戊午、授賀茂別雷神禰宜賀茂縣主益雄外從五位下、」三代実録、元慶8年4月3日癸巳、授賀茂別雷神社禰宜正七位下鴨縣主貞基外從五位下、
姓氏録、(山城国神別)賀茂縣主、神魂命孫武津之身命之後也、また鴨縣主、賀茂縣主同祖、神日本磐余彦天皇(諡神武)欲向中洲之時、山中険絶跋渉失路、於是神魂命孫鴨建津之身命、化如大鳥、翔飛奉導、遂達中洲、時天皇喜其有功、特厚褒賞、八咫烏之號從此始也、
焼亡
百練抄、嘉承元年4月13日、賀筏別雷社焼亡、御正躰奉移貴布禰社、
雑事
式三、(臨時祭)凡鴨御祖別雷熱田之社神税穀者、社用之外不得用、雖充社用、申弁官待執、」百錬抄、永延元年3月16日、諸卿定申賀茂別雷社鳥居側堀出往古銭七百八十文事、可令諸道勘申由宣下、」永祚元年6月19日、鴨社御殿前大樹転倒、数星自樹中飛、指南連去、」仁安元年7月、近日仁和寺辺女夢云、依天下政不法、賀茂大明神■日本國可令渡他所云々、去月并今月上旬両度有此夢、仍賀茂社司等参内并摂政第申之、

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