神足神社
こうたりじんじゃ


戻るボタン





【神足家】

初祖神足光丸は奈良時代の皇族。天武天皇の曾孫ともいう。天皇の皇子・長皇子(ながのみこ)の子・栗栖王(くるすおう)の子とされる。
神足家は、南北朝時代、神足信朝(信友)が足利直義の警固役に就く。小塩庄の下司職は神足氏が世襲した。室町時代、幕府の御家人となる。幕府の西岡被官衆の一人となる。戦国期、神足城を本拠とし周辺を支配した。戦乱の後、神足氏は九州の天草の地に移ったという。



【土塁】

境内は勝龍寺城北東200mに位置している。境内南西、東南の竹林に鉤型に、勝龍寺城の北方外郭として造られた土塁、空堀、土橋遺構がある。これらの遺構は、城より10m標高が高いため、北の防御線になっていた。南北に架かる土橋には、西側土塁の迫り出しがあり、横矢の構造になっている。横矢(横矢掛り)とは、侵攻した敵に対して防御が手薄になる側面からの攻撃を行う。かつて土塁は、西へ現在の東海道本線まで伸びていたとみられている。さらに、境内北にもうひとつの土塁と堀が築造されており、二重の土塁と堀により城を防御していた。
この地は、鎌倉時代、付近が摂家九条家の荘園となり、神足氏が管理した。室町時代、土塁が築かれ神足城と呼ばれる。室町時代、1571年、細川藤孝が勝龍寺城に入り、城の補強、改修をした際に、北の外郭の一部に土塁を取り込んだ。


神足神社

神足は加布多利と訓べし○祭神詳ならず〇神足村に在す、(山城志)例祭 月 日、
官社
文徳実録、齊衡元年10月戊辰、以山城國神足神列於官社、

神社覈録






戻るボタン


山城国INDEXへ        TOPページへ