阿波々神社
あわわじんじゃ


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【由緒】

御祭神 阿波比売命 (天津羽羽神)御神徳は生産の神・子授・安産成就
由緒 奈艮時代天平8年(西暦736年)御鎮座と伝えられ 平成28年に御鎮座1280年を迎えた廷喜式内社(古く格式ある神社で)山項の桜の満開の頃4月10日の例祭を中心にさくら祭が斎行されます
古来駿河遠江の人々に広く崇敬されていましたが戦国時代に兵火を蒙り一時衰微致しました
明治時代となり再び広く崇敬されるようになり 昭和62年に社殿を山頂現在地に移築改築し 平成14年には社務所を社殿横に移築改築し 平成18年・平成28年と10年毎に式年大祭を斉行し現在に至っております
また神社の森は林野庁より航行目標の保安林に平成12年に掛川市より平成21年に静岡県より天然記念物の指定を受けております
この社標は平成14年4月吉日建造
平成31年4月天皇陛下御在位30年新元号改元(五月)を記念して改修しました

社頭掲示板



【阿波々神社略記】

祭神 阿波比売命(天津羽羽神)は天石戸別命の御子で八重事代主命の后神です
御神徳は生産の神・子授・安産成就の神 また駿河湾・遠州灘よりの見立(目標)の山として古雷漁師・船乗りなどに信仰されています
また境内林は杉の巨木をはじめ多くの樹木が混在する貴重な森で掛川市の天然記念物・林野庁より保安林の指定を受けていて現在県内に国県指定の天然記念物の社叢(森)は4件で5件目として平成21年11月に静岡県より天然記念物の指定を受けました
例祭 4月10日(山頂の桜は麓より一週間ぼど遅いためちょうど桜の満開の頃です)
由緒 当杜は天平8年(西暦736年)の創紀(御鎮座)と伝えられ(※1)延喜式内社として1270年余の昔より掛川はもとより駿河・遠江地方の人々に広く崇敬され はるか京の都にもその名を知られておりました
古来、人々の崇敬を集めた当社も戦国時代に武田・徳川の攻防で兵火を蒙るなどその後の神社の整備は思うに任せなかったようです
明治の世に移り(※2)神仏習合が廃され 神仏分離令により明治6年12月に社格が郷社となり 明治17年には本殿を始め拝殿等も改築され 氏子、崇敬者も昔のごとく広い範囲に広がっていきました
昭和62年には創祀、(御鎮座)1250年記念事業として本殿を山頂の現鎮座地に移築し合せて社殿等も山頂現在地に移築改築し4月9日に(※3)遷座祭を斎行翌4月10日に例祭並びに遷座奉祝祭を賑々しく斎行しました
その後平成14年2月社務所を改築平成18年狛犬新造等境内整備を進め 現在に至っております
現在平成28年4月に子定しております創祀1280年式年大祭斎行の準備と奉賛事業を進めて延喜式内社に相応しい神社に戻すべく境内の整備を進めでおります
※1 延喜式内社 平安時代の延喜年間(10世紀前半)に著わされた延喜式神名帳に載せられている古い格式高い神社のことです
※2 神仏習合 仏教伝来以後 神社においてはいくつかの段階を経て神仏が習合して神社に仏像がまつられるなど仏教色が強くなりました
   神仏分離令、明治元年分離令により ほとんどの神壮と寺院は明確に分けられるようになりました
※3 遷座祭 神様の鎮座する本殿を新しく造営した時などに 新しい本殿に神をお遷しする重要なお祭のことです
伊勢神宮で行なわれた神殿を含めすべてを新しくして期間を決めて定期的にお遷しすることを「式年遷宮」といわれています

社頭掲示板



阿波々神社

阿波々は假字也○祭神詳ならず○西山村に在す、(式社考参考)、
式社考云、日坂駅ノ東北ニアハガ嶽ト云フ高山アリ、山上ニ観音堂アリ、其堂ノ北ニ八王子権現ノ祠アリ、コレ即当社ナラン、一説、アハゝ山ノ峯ニ小社アリ、今俗ニ観音ノ奥ノ院ト云ヘリ、コレ阿波々神社ナルベシ、此山ハ佐夜ノ中山ノ北ニ高ク見ユル山ナリ、○或人云、観音寺ノ堂ヨリ一丁余上リテ此社アリ、式内阿波々神社也ト古老語レリ、と云り

神社覈録



郷社 阿波々神社

祭神 阿波比売命
創立年代詳ならず、但し延喜式内社にして、其の当時小社に列せらる。
遠江国式内社摘考に云く、「阿波々神社、日坂駅の東北に、あはがたけといふ高山あり、山上に観音堂あり、其堂の北に、八王子権現の祠あり、此神阿波々神社ならん、」
遠江国風土記傳に云く「阿波々神社、在淡ヶ嶽、観音及小社也、○異説難用、」
掛川志稿に云く、「阿波々神社は今無し、されども粟岳あり、○式社の衰替せしも、諸國皆久きことゝみゆれば、此阿波々神も、永正より遡に古く廃せしものにや、此祠は〇古人の紀行の類にも見えず」
神名帳考証に云く「姻霞奇談(明和中三洲吉田ノ人林自見作)同説観音寺の堂より一町徐上りて此祀あり、式内あはゝの社也と、
古老語れりと云へり、俗に云無間の鐘を埋たりと云ふ処也」近古山上に観昔寺設立せらるゝや、社運衰頽して、遂に浮屠の犯す所となりしが、明治維新、神佛の混淆を禁ぜられ、再び神威赫々たり、明治6年3月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、其他社務所等を備へ、境内は1980坪(官有地第一種)あり、地淡嶽の山頂に在り、此の山佐夜中山の北に在りて、摘考に「いつこよりも、よく見ゆる山なり」と見え、国内著名の山嶽にて、随つて風景に富む、東海道名所図会に「絶頂に、杉の村立蒼々と見えたり」といへり。
東路はころもで寒し白くものあはゝがたけの秋の初風 賀茂真淵

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